人の意識というのはすごいもので、フォーカスした対象に自分を無意識に近づけていく。
そう考えると、憧れの人や、ファンとして応援している人、あるいは大好きな人がいる、というのはありがたいことで。
いいなぁ、好きだなぁ。
と思える人がいたら、誰でも勝手にその人のようになっていくものだ。
その大好きな人の成功や活躍。
それはもう一人の自分の成功や活躍なのだから、自分のことだと思って喜んでいるのが、一番簡単な願望実現の方法の一つなんじゃないかと、よく思うのだ。
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以前に、テレビゲームの「ドラクエ4」に寄せてエントリーを書いた。
最近ではリメイク版も出ているが、私が最初に触ったのは小学生の頃だっただろうか。
少し病的なくらい「ドラクエ4」に惹かれて、クリアした後もずっと旅をやめず、その結果8人の仲間たちのレベルを最高の「99」まで上がってしまうくらい好きだった。
その中で、不思議なシステムがあった。
このドラクエ4から登場して、その後のドラクエシリーズの定番となった「馬車システム」である。
一度にモンスターと戦えるのは4人までで、残りの仲間たちは馬車の中で待機する、という設定だった。
(どうでもいいが、第5章でこの馬車を手に入れるまでが、とてもイイ。過去にたいせつな仲間に裏切られた傷から、誰も信じなくなったホフマン。彼のために、勇者たちが「しんじるこころ」という宝物を、裏切られた洞窟に取りに行くというイベントが泣かせる。「信じる心」を取り戻したホフマンが、勇者たちに与えるのが「馬車」というのもまた、心憎い)
ドラクエというゲームは、モンスターを倒して「経験値」を得ることで、仲間のレベルが上がっていく。
私が不思議だったが、外でモンスターと戦っていたメンバーにはもちろん「経験値」は入るのだが、馬車の中で「何もしていなかった」メンバーにも同じように「経験値」が入るというシステムだった。
え?なんで?
ずっと馬車の中にいたブライとかトルネコは、何にもしてないじゃん?
外で必死こいて戦っていた勇者とかライアンは、めっちゃ頑張ってたよ?
何で同じ経験値が入るんだろう?
とか思って、腑に落ちなかった。
けれど、いまならよく分かる。
彼らは、「仲間」なのだ。
馬車の中でお茶でも啜りながら世間話してても、
外で「つうこんのいちげき」を食らってても、
馬車でウトウトしていても、
新しく覚えた「ベギラマ」でモンスターたちを撃退しても、
みんな同じ仲間なのだ。
それぞれが自分らしくいることが、パーティにとって最高の恩恵を与えるのだ。
サボってても、
戦ってても、
ぼんやりしてても、
傷ついていても、
何してても大丈夫。
どうせ、次は自分の番がくるから。
そう思えるなら、皆に等しく「経験値」が入ってレベルが上がっていくのも分かるような気がするのだ。
人間の意識というのは、それくらい偉大なものだと感じる。
そうだとしたら、憧れの人、大ファンですと胸を張れる人、大好きな人がいるという意識は、同じようなものなんじゃないかなと、ふと思った。
(まあ実際のところ、単にゲームの容量の問題でそういう仕様になっているのだとは思うが、そう考えた方がロマンがあるよね)
人の意識がフォーカスすることのパワーのすごさを書こうと思ったら、なんだか思わぬ方向に行ってしまった。
けれども、大好きな人がいるというのは、そんな意味?でもありがたいことだ。
限りある時間を使って、誰に意識をフォーカスするのか。
誰とパーティーを組んで、馬車に乗りたいのか。
今日は少しそんなことを考えるのも、楽しい。
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書いていてドラクエ4が懐かしく、またプレイしてみたくなった。
たしか家にDS版があったように思うが、どこにしまったのだったか・・・
なぜ、あんなにも惹かれたのだろう。
第1章から第4章まで別々の主人公の物語が奏でられて。
第5章で、いきなり勇者の村が魔族に襲われて、天涯孤独になった勇者は一人旅をする。
旅の中で、第4章までの物語の主人公たちが、一人、また一人と勇者の仲間になっていく。
国王に忠誠を誓う王宮の戦士。
故郷を失くしたおてんば姫と、心配者の神官と、その教育係のじいや。
独立して世界一の武器商人を目指す者。
両親の仇を探す占い師、踊り子・・・
故郷、両親、仕えるべき主、夢・・・どこかに欠けたところのある仲間たちは、みんな私の一部だったのかもしれない。
38歳の私が振り返れば、あの仲間たちはみんな、私の投影のように思える。
ひょっとして小学生の私は、それを知っていたのだろうか。
そうとでも考えないと、あれほど「ドラクエ4」に惹かれた理由が説明できないように思える。
考えても、せんないことなのだが。
大灯台が懐かしい。
トルネコが仲間になって、船が手に入るんだよなぁ・・・