大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

執筆のご依頼と、期待に応える、ということについて。

執筆のご依頼をいただいています。

ありがたいことです。

 

お二方から自己紹介文の作成依頼をいただいておりまして、少しお話をお伺いさせて頂きながら原稿の作成を進めているところです。

 

その方たちの素晴らしい魅力を、どうやったらそのままお伝えできる文章がお届けできるかなぁ、と頭をめぐらせております。

 

 

さて、いままでここで自分の好き勝手に文章を書いてきましたが、これが執筆依頼となると、なかなか勝手が違って、いろいろな勉強をさせて頂いております。

 

やはり、書くことへの怖さ、というのは多分に出ています。

求められて書く、ということは、怖い。

 

慣れ、という面もあるのでしょうが、やはり怖いものは怖いのです。

 

けれどその上で、私が陥りがちな厄介な状態がありまして、それが

 

「せっかくの依頼していただいたのだから、何とかその期待に応えよう」

 

という焦りのような意識です。

 

これが、なかなかにしんどい。

身体がねばねばした液体に絡め取られているかのように、動けなくなります。

 

もちろん、いただいた依頼に対して全力を尽くします。

 

けれど、そもそも論として、他人の期待に応えることを最初に目標にするのは、どだい無理な面があるんじゃないかな、と感じます。

 

私は、私。

依頼された方は、依頼された方。

 

期待に応えようとすればするほど、自己と他己の線引きはあいまいになり、「自分」ではないことをしようとしてしまいがちです。

 

「なぜその方が、『私』に依頼をしてきてくださったのか?

 その方は、『私』に何を求めてきてくださったのか?」

 

という「最初の信頼」が崩れるように思うのです。

 

このあたり、男女の関係の機微と似ているように思います。

とても魅力的に映る男性に惚れて、お付き合いを始めたのだけれど、その相手が自分に気に入られようとして行動しだすと、途端に魅力が失われて幻滅してしまうように。

 

最終的に相手が何を考えているのか、目に見えない以上、その人の期待に応えられたのかなんて、ほんとうのところは分からない。

 

人は、自分自身の期待に応えることしかできない。

 

そして、それが実は最も相手のためになる。

 

自分で納得できる、自分の期待に応えられるものを、納品する。

 

最終的なゴールはそこのような気がします。

 

これ、「文章」というクオリティや品質の基準があいまいなものだから、というわけでもなくて、たとえば工業部品のように厳密な品質基準が定められている製品においても、同じことが言えるように私は思います。

 

結局、品質レベルが上がっていく企業は、顧客の要求基準で品質を考えていない。

自社の持つ基準、社風、プライド、企業風土といった有形無形のものが、品質を支えている。

 

サービスも製品も、同じ「人間」がつくりだすものですから。

 

自分自身の期待に応える、責任を持つ。

 

いまは、そんな風に考えています。

が、これもいろいろ経験をしていくと変わるのかもしれません。

 

こんなこと書くと、「この人は、私の期待に応えてくれなさそうだな」と思われるかもしれまません。

 

書きながら、そんな「見捨てられる怖れ」はたくさん感じます。

 

けれども、それはそれ。

「いまの私」を正直に書いていくことが、信頼を得る唯一の道だと思いますので、リライトせずにそのままアップします。

 

この話題はもう少し深堀りできそうなので、またゆっくり考えてみたいと思います。

 

 

重ねまして、ご依頼いただいた方々には、あらためて深く感謝申し上げます。

 

「才能は、『誰かのために』使うときにこそ磨かれ、輝く」

そんなような金言を耳にしたことがあります。

 

そんなご縁を与えて頂き、本当にありがとうございます。

 

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