大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

断酒日記【114日目】 ~「かわいそう」という危うい感情

断酒をはじめて、もうすぐ4か月になる。

もう「断酒している」意識はなく、「継続するためにがんばっている」という意識もなくないような気がする。

世の中にはたくさんの人がいて、いろんなことを楽しんでいる。

登山を楽しむ人もいれば、草野球、将棋、ガーデニング、旅行、スポーツ観戦、読書、映画、燻製、ファッション、神社巡り、競馬・・・世の中にはさまざまな楽しみがある。

世にたくさんある楽しみと同じように、「お酒」という楽しい選択肢があって、私はそれを(たまたま)選んでいない、という感じである。

たしかに、ふと「飲みたくなる」瞬間はある。

一仕事終わったり、何かを書き終わったり、あるいはたいせつな友人のために、というような「祝杯」を挙げるような時間に、それは訪れる。

これをずっと「断酒」で続けるのか、それとも気の向いたときにその「祝杯」を挙げるのか、悩ましいところである。

その悩みは、「どちらかが正解で、その正解を選ばないといけない」から迷うのではなく、「どちらも正解で、どちらを選んでもいい」から悩ましい。

そんなこんなで断酒を続けているが、先日ある酒席があったときに、少し考えさせられたことがあった。

ソフトドリンクしか頼まない私に、なぜ飲まないのか?とある方から質問された。

「なぜ」と聞かれると、その答えは私にとって「何となく」が正しい答えになるのだろう。

実際、断酒を思い立った際のエントリーを振り返ってみても、思い悩んだというより、近所の川の橋の上で子どもと亀にエサをやりながら思い立ったのが契機である。

ただ、そこに至るまでの思考や習慣の変遷など、いろんなことが積み重なって、その「ふと」が訪れているとは思うのだが、それを酒席で説明するのは難しい。

「詳しくはブログで」

と言いたかったが、

「お酒は好きなんですが、飲むとすぐ寝てしまいますし、そのほかの好きなことできなくっちゃうんで、やめました」

と端的に答えてみた。

すると、その方は

「へえ、飲みすぎるとやっぱり身体に堪えるしね、それにしても、この美味い一杯が飲めないのはかわいそうだね」

と生ビールを片手にしたり顔で言われた。

かわいそうだね

その言葉に、私は違和感を覚えた。

「いやいや、これまでも胃液を吐くまで二日酔いで苦しんだことは数知れずありますし、僭越ながらお酒が美味しいのは多少なりとも存じ上げております。けれど、そういうデメリットがあるから、メリットがあるから、というのとは別の話しなんですよ、というのもですね・・・」

と説明するのは場の空気を壊しそうで(なによりメンドくさかったので)、「そうですね」という最も当たり障りない返しでスルーしておいた。

けれど、その酒席が終わったあと、どうもその違和感が私の中で引っ掛かるので、いちど「かわいそう」について考えておいた方がいいように思った。

「かわいそう」というのは、あわれみや憐憫という感情だ。

「生類憐みの令」ではないが、そこには確実に、階級や立場が上の者から下の者へと「施す」ものが「かわいそう」という感情のように思う。

他者に対して、マウントを取る際の言葉とも言えるのかもしれない。

私は私の意志で「好き」で断酒している。

同じように、誰しもが自分の人生を好きに「選んで」歩いている。

もちろんその過程で、スタートゲートに入ろうとしている人、1コーナーに向かって走っている人、向こう正面でペースを落とそうとしている人、最後の直線で死力を尽くしている人、いろんなペースでいろんな場面を歩く人がいるのは当たり前だ。

けれど、そこに上も下もないはずだ。

そう考えると、「かわいそう」という感情は少し危うい。

それが、違和感の正体かもしれないと思った。

もしも、仮にその方が断酒している私を見て「こんなに楽しいこと、好きなことをやれなくて、かわいそう」という感情を抱いたのであれば(ほんとうにそう思ったのかどうかは、本人でない限り分からないが)、それはもしかしたら、「こんなに楽しそうなことを、やれなくてかわいそう」と「自分に対して思っている」感情を、私に投影している可能性も考えられる。

もしそうなら、その方も、もっと自由に、もっと好きに生きられるのだろうな、もしそうなら、どんな輝きをみせるのだろうか、と思うのだ。

「かわいそう」という感情は、上下に分離した関係やマウンティングから生まれる。

それはまた、誰しもが自分の人生を好きに選びとって生きている、という前提の不在から生まれると言い換えられるのかもしれない。

もしも、自分が自分の人生を真摯に選びとって生きていれば、それを目に見える世界に投影していき、周りのみんな全てがそうしているように見えるはずだ。

そうなっていないから、順位やランク付け、あるいは上下の立場を必要として、「あの人はかわいそう」という偽りの同情を送ることで、自分を騙そうとするのかもしれない。

もし仮に、私が他の誰かのことを「好きなことをやれなくてかわいそう」という感情を覚えるのなら、それは「好きなことをやれていなくてかわいそう」と「自分に対して」感じている可能性がある。

それは、要注意である。

やはり、「かわいそう」というのは危うい感情だ。

「かわいそう」よりも「信頼」を、そして「応援」を贈れるようになりたいと思う。