大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

親の心が、プロジェクター。その内面を、子どもという真っ白なスクリーンに映し出す。

親の心が、プロジェクター。

その心の中で輝いている「光」や、あるいは蓋をしてなかったことにしている「闇」が、子どもという真っ白なスクリーンに鮮やかに拡大して映し出される。

 

 

驚くべきことに、親がしたかったこと、言いたかったこと、我慢していたこと、それらを子どもが余すことなく完璧に代わりをしてくれるようだ。

 

親が不快に感じる子ども行動は、すべてその親自身へのサイン。

 

ある意味で、人間関係における普遍的な真実が、最も強く炙り出されるのが親子関係と言えるのかもしれない。

 

「子育てと自分育て」とはよく言ったもので、ほんとうのところ育てられているのは私の方であり、癒されているのも私の方なのだ。

 

 

それは冬至を過ぎた、寒さも本格的になってきた休みの日だったように思う。

 

昼食の後にお絵描きに没頭していた息子が、突然癇癪を起こし、泣きだした。

 

描こうとしていた恐竜の漫画が上手く書けないことに腹を立てた癇癪だと思っていたが、話を聞いていくうちに、どうもそれとは違うことが分かった。

 

「ぼくはほんとうは泣きたくない」

「ぼくは悪い子になりたくない」

「イヤっていうことが言えない」

「パンチやキックしてやり返すと、ぼくは悪い子になってしまって、おにがくる」

 

そう泣きながら訴える息子の声を、わたしは静かに聞いていた。

 

そうか、これはたぶん俺の心の内なんだろうな。

YESは言えても、NOが言えない、私の気弱な心の内面。

 

ひとしきり話して落ち着いた息子を抱きかかえ、つとつとと話をした。

 

「話してくれて、ありがとう」

「悪い子でもいい、パンチしてもキックしても、おとうもおかあも君を愛している」

「話してくれて、ありがとう」

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 

側では不思議そうに娘が見守っていた。

 

「じゃあ、『やめてよ、いやだよ』って言う練習しようか」

「おとうがパンチするから、ちゃんと目を見て、『やめて』って言ってみよう」

 

何度かの逡巡と気恥ずかしそうな表情の後、息子はしっかりと私の眼を見て『やめて』と言えるようになった。

すごいことだ。

 

抱きかかえたまま、何回か同じような練習を繰り返したあと、まるで憑き物が落ちたかのように息子はニコニコして絵を描き始めた。

 

散らばった色鉛筆を拾い、あとには何もなかったかのような静寂が訪れた。

 

側にいた娘は面白がって、「わたしもやるー」と言って同じ回数だけ練習を繰り返させられた。

 

 

こう書くと美談やできた親のように聞こえるかもしれないが、まったく同じ息子という真っ白なスクリーンに、私自身の完全なる闇を投影したことがある。

 

あれは、息子が3歳くらいのときだったのだろうか。

 

娘と三人で留守番をしている中で、何かの拍子に息子と娘が二人とも泣き出した。

 

もう今となっては何が原因かも思い出せないくらい、些細ななことだったのだろう。

 

私はどうしたらいいかわからず、なだめてみたり、怒ってみたり、無視してみたり、あらゆる方法でその耳障りに感じる泣き声を止めようとした。

 

子どもの泣き声というのは、無価値観や無力感、罪悪感を抱える親にとって、どうしようもなく心の痛みを刺激する。

 

自分には何の価値もない。

自分は不完全で無力な親だ。

自分は罰せられるべき悪い親だ。

 

そのような親の悲しい前提を、子どもの泣き声というのは刺激する。

 

息子の泣き声は、心の中にぽっかりと空いた私の無価値観や罪悪感を刺激するのに十分すぎる破壊力だった。

 

いつまでも泣き止まない息子と娘。

 

いま思えば、たかだか10分やそこらの癇癪なり喧嘩だったのかもしれない。

 

けれども、そのときは永遠に泣き止まないのではないかと感じられた。

 

次第に私は声を荒げていった。

 

いっそう激しく泣きながら、息子は「おかあさんといっしょのおやすみがよかった」と切々と訴えてきた。

 

私の心の中の無価値観と罪悪感を突く特大のキラーワードに、気づくと我を忘れていた。

 

暴言を吐きながら、幼い我が子の胸ぐらを掴んでいた。

 

必死に息子は暴れた。

 

その拍子に足を滑らせ、息子は転んで上唇を切った。

 

息子の唇に浮かんだ紫色の傷を見て、取り返しのつかないことをしたと私は認識すると同時に、おそらく永遠に抱えるであろう罪悪感を覚えた。

 

何度も何度も私は謝った。

 

けれど、その私を見る息子の眼に宿った怯えは、いつになったら消えるのだろうかということばかりが気になった。

 

私はおそらく墓場までこの罪を持っていかなければならないのだろうな、と妙に冷静な頭で考えていた。

 

どうしようもない、クズ親。

救えない、男。

 

どれだけ謝っても、許されるものでもない。

死にたくなるくらいの罪悪感。

 

そこから息子とどんな会話をしたのか、記憶があまりない。

 

 

それまで、温厚だとか、優しそうとか、ケンカしなさそうとか、怒らなそうとか、周りの人によく言われてきた。

 

違う、そうじゃない。

 

俺は怒ることすらできないくらい、感情が死んでいたんだ。

怒らない人間なんて、いるはずないじゃないか。

 

同じ時期に、ある方に言われたことがある。

ほんとうのところ、何を考えているのか分からないよね、ふと不機嫌そうな顔をしているときがあるよね、と。

 

当時はショックを受けたが、いま考えると当たり前の話だと思う。

何を感じて、何を考えているのか、自分自身がわかっていないんだから。

 

わけもなく湧き上がる怒りや悲しみや寂しさを、無理して取り繕って、蓋をして、なかったことにして、それでも隠しきれないその怒りや不機嫌を、周りが感じるくらいで。

 

その我慢してきたものを、息子というか弱い存在にしか吐き出せなかった。

 

頭を掻きむしりながらこれを書きながら、私はおそらくあの息子の怯えた瞳を一生忘れることはないだろうと思う。

 

親と子どものネガティブな悲しいニュースを見かけるたびに、いつも思う。

 

ああ、俺とおんなじ。

それをどうこう言う権利は、俺には何もない。

俺自身が、最低の親だからだ。

 

別に彼らが特別悪い不出来な人間というわけでもない。

俺と、何の違いもない。 

 

ただただ、心からドクドクと血を流している、傷ついた悲しい人間だっただけだ。

 

 

結局は、親の心の内にある光も闇も、余すことなく見せてくれるのが子どもという存在のように思う。

 

傍から見て同じ行動をしていても、それはえげつないくらいに親の心が炙り出される。

 

子どもが泥んこ遊びをしていても、それを見て昨日は「よく遊んだね、楽しかった?」と褒めたり、今日は「こんなに汚して!」と怒ったりすることなんて、日常茶飯事だ。

 

それは、自分の心の状態が投影されているだけで、子どもはいつだって真っ白でフラットだ。

 

そこに、癒すべき何かが、それがわだかまりなのか、過去のトラウマなのか傷なのか、カルマなのか分からないが、それがあるからこそ、その感情を感じさせてくれることが起こる。

 

すべての子どもは、無条件に親を救いにやってくると言われる。

 

もしそうだとするなら、子どもが泣くのは親を癒すためではないかとも思う。

 

もしそうだとするなら、息子と娘も私を救いにやってきてくれたのだろうか。

 

もしそうだとするなら、私も父親と母親を救ってきたのだろうか。

 

もしそうだったら、いいのだが。

 

 

これまで小さな先生について書いたエントリーを振り返ってみる。

どれを見ても、懐かしい。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

「好きなこと」をとことんしよう。

息子は教えてくれた。

 

罪悪感とお金のブロックを感じながらも、外出の度にせっせと買い集めた恐竜たちは、今では息子のたいせつな友達になった。

その一頭一頭に名前を付けて、出席簿までつくっている。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

息子が闇を吐き出してくれたときのこと。

私が誰よりも自分自身を否定していることを、自覚したころに起こったように思う。

 

親の心が、プロジェクター。

子どもは、ただその内面を映し出すスクリーン。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

誰かの心に寄り添うことを、娘は教えてくれた。

結果主義の男性には、なかなか理解することが難しいものだ。

 

結果よりも、正しさよりも、相手の心に寄り添うこと。

小さな先生は、いつでも偉大だ。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

子ども無条件に全力で親を救うためにやってくる。

そんなことを実感したお話。

 

どうして娘は、話してもいないのに、私が親を亡くした悲しみに寄り添おうとしてくれるのか。

神々しい何かを感じざるを得ない。

 

 

さて、息子は再燃した恐竜ブームから、今度は野球に興味が出たようだ。

 

同僚からもらったグローブとボールで、キャッチボールをする週末が楽しみだ。

 

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