人間関係は、それぞれの立場を繰り返すもの。
売る立場と、買う立場。
謝る立場と、許す立場。
ファンの立場と、スターの立場。
加害者の立場と、被害者の立場。
暴君の立場と、メンヘラの立場・・・
今日は私がお客さんだけど、明日は販売員の側に。
些細なことで誰かを責めてしまったけど、同じように責められる日が必ずやってくる。
といったように、場所を変え時間を変え人を変えながら、人はその回ってくる役割を演じていく。
まるでこの世界は小さな劇団のように、永遠に同じ役割を演じ続けることはできない。
それは、単に「順番」があるだけだ。
演目が変われば、今まで演じていたマクベスの衣装を脱いでリア王になるだけ。
そして、それが最も顕著に出て、かつえげつないのが「パートナーシップ」なのだろう。
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どんな素敵なパートナーを得ようととも、必ず二人の間には「役割」ができる。
ひとつのボールを置いただけでは、それは生まれない。
ふたつボールを置くと、そのボールとボールの間には「関係性」が生まれる。
その距離は、遠いのか、近いのか。
横に並んでいるのか、縦に並んでいるのか。
そのボールの大きさは、どんな違いがあるのか。
そのボールの二つの色は、補色関係なのか、反対色なのか。
ふたつあればこそ生まれる、「関係性」という「役割」。
話す側と、聞く側。
振る側と、振られる側。
惚れる側と、我が道を往く側。
自立している側と、べったり依存する側。
問題をつくる側と、それを解決する側。
リーダーシップを取る側と、フォロワーシップを取る側。
どんなボールをふたつ選ぼうとも、そのふたつには「関係性」が生まれるように、二人の間には必ず「役割」が生まれる。
それは意識せよ無意識にせよ、自分とすべての他人の間で起こる。
あまり気にならないのは、それが自分と関係性や役割が薄い人だったのだろう。
自分はハムレットを演じている舞台で、オフィーリアを演じる相手こそがパートナーなのだろう。
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この世界という舞台が面白いのは、ハムレットはずっとハムレットではいられず、いつしかオフィーリアに交代しなければならないということだ。
そして同時に厄介なのは、出会った当初はお互いに自分の理想化した都合のいいイメージを相手に投影するのだが、「関係性」が長くなり親密になるほどに、自分の影を相手に投影してゆく、ということだ。
流れていない水がよどみ濁るように、
同じ演目を演じ続けても集客が落ちるように、
「役割」が硬直するとパートナーシップという「関係性」も死に向かう。
多くの場合、
男性は自分の内に宿る男性性というバランスを崩す現状を否定する力を、相手の女性の中に見ることで不機嫌になり、女性を攻撃する。
女性は相手の男性が不機嫌なのは自分が悪いという罪悪感から、自分を抑圧して我慢を重ねる。
こうして取り繕った「関係性」の多くは、女性が我慢できる許容量を超えるところで破綻を迎える。
そこで取れる選択肢は三つで、
そこで「役割の交代」というバンジージャンプを飛ぶか、
そのまま緩やかに「関係性の死」を迎えるか、
それともそのままの状況をあるがままに「受け容れる」か。
どんなパートナーシップも、その選択を迫られるときがある。
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こう書くと、三つのうちのどの選択が「正しい」のか、どうするのが「よい」パートナーシップなのか、という優劣をつけたくなるかもしれない。
けれど、そう考えることが、すでに思考の罠に捉われていると言える。
ほんとうのところは、どれでも同じなのだ。
どの選択も等しく価値があり、完璧に正しく、同時に間違っている。
役割が交代すれば、またハムレットを演じることもあるし、
関係性の死を迎ても、また別の劇でオフィーリアと演じるだろうし、
受け容れたところで、また選択する場面がやってくる。
どれを選んでも、劇は続いていくのだ。
それも、順番に、どの劇も。
どうせハムレットもリア王もジュリエットも演じるのなら、
今日の順番でめぐってきた役割を、演じきってみようか。