年初にあたって、ブログ・ポリシーを定めた。
手帳にも書き写していて折にふれて読み返すのだが、自分で設定しておきながら、この3番目が難しいなぁ、と日々感じている。
3.共感されよう・売れよう・愛されよう・大勢に向けて書こうとしない。たった一人に向けて、自分の在り方を表現することにこだわって書く。
どこまでも自分の在り方にこだわりたいのだが、いい人でいたい、愛されたい症候群がチラチラと顔を出してくる。
それに辟易としていたが、どうやらそれを手放すのは難しいらしい。
ならばもっと執着して、症候群をこじらせている自分を書いた方が、「自分の在り方」に近いんじゃないか?と思うのだ。
見てよ見てよ!もっと愛してよ!
って駄々こねてる自分が、わたしの中に確かにいるのだから。
そして、そんなネバネバした子ども性を、わたしはたいせつな人にこそ愛してもらいたいと思っているのだから。
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最近、ブログをSNSでシェア頂いたり、実際にお会いしたことのない方からのご感想やメッセージを頂くことが増えた。
ありがたい限りで、なかなか自分のことを振り返ってみても、感想を送るというのはエネルギーを使うもので、まして直接面識のない人間にそれを送るのは、ものすごく勇気の要ることだと思う。
心より感謝申しあげます。
お恥ずかしい話なのだが、そうするとムクムクと顔を出してくる私の一面がある。
「もっと褒められたい」
「もっと評価されたい」
「もっと愛されたい」
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・・
・・・
「そのためには、もっといいこと書かないといけない」
「格好いいことを、書かないといけない」
「多くの人に届けられることを書かないといけない」
という、「足りないからもっとクレクレ愛してクレ」症候群の私が。
こうなると、書けなくなる。
感想を頂いたりする大切な人だからこそ、自分のいい面を見て欲しいと思う。
わたしってこんなにすごいんだよ、だからもっと見て見て、と。
おそらく、真実はその逆だ。
いい顔の私を見せるほどに、わたしは無色透明になり、誰の記憶にも留まらない人になる。
いつだって愛され、興味を引いて、魅力的なのは、自分の闇をさらけ出している人だ。
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立場を逆にしてみれば、よく分かる。
自分がほんとうに大切だと言っている相手に、隠しごとをされた、寂しくなる。
たいせつな人ほど、どんな面でも、
不機嫌でもメンヘラでもプンスカでもドンヨリでもドンペリでもトンベリでも、いくらでも受け止めるつもりでいるのに、それをずっと見せてくれないのは、信頼してもらえない気がして、とても悲しい。
たいせつなひとほど、そうなのだ。
私のいい面だけを見てどれだけ称賛されて評価され愛されても、チラッと見せる闇の部分を見たとたん、「エッ?大嵜さんってそんな人だったんですか?」という気分になるはずだ。
私は寂しがり屋で感情的なメンヘラだけどときに超絶ロックマンだし臆病ですぐに拗ねて一人になりたがるし臆病なくせしてプライドだけは高いしそれなのに男性としての自信はなくて受け取り下手だ。
でも、そんな私すらも、愛してほしいと思うんだ。
そして、そんな私を愛してくれる人は、それを出さないと分からないんだ。
だっていい顔している私しか知らない人が、そんな私の闇の部分を愛してくれるかどうかなんて、実際に出してみないと分かりようがないじゃないか。
例えばほんとうにたいせつな人が、恐ろしく不機嫌だとして、それを理由に嫌いになるだろうか?
その不機嫌に寄り添って、なんで不機嫌なのか聞いて、そしてまた笑顔が見たいと思うのが愛じゃないのか?
そりゃ、エゴではなくて愛から世界を見たいよ。
怖れを越えて手放したいよ。
喜怒哀楽の底に必ずある愛とつながっていたいよ。
ムカつくあの人=シャドウの持つ、生きられなかった私を統合したいよ。
怒りの底にある消え入りそうなくらい微かな本音に気づきたいよ。
自分は愛されない必要とされないという思い込みもブロックも解消したいよ。
世界から愛されたかったら、まず自分を愛することが先決だと思うよ。
でも、そうじゃなくて、不機嫌もぷんすかも喜怒哀楽もメンヘラもエゴも怖れも、
ぜーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーぇぇぇんぶひっくるめて、
わたしを愛してほしいよ!
ってとき、あるさ。
いまめっちゃ寂しいから
バチクソ不機嫌だから
怖くてしかたがないから
落ち込んでいるから
そんな自分でも愛してほしいって、それの何がいけないんだよ。
そんで、そんな闇を自分の周りのたいせつな人が見せてくれたら、ありがてえことだな、と思うわけよ。
相手が自分の鏡であるなら、自分の闇を愛せるチャンスなわけだからさ。
わがままでいいじゃないか。
自分のエゴを押し通していいじゃないか。
怖くて閉じこもっていいじゃないか。
喜怒哀楽、ぜんぶいいじゃないか。
それだけ人生かけてでも、ほしい愛があるんだから。
それだけ人生かけてでも、与えたい愛があるんだから。
それで、いいじゃないか。
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「自分の在り方」を考えたときに、崇高なみんなに見られても恥ずかしくない自分でないといけないと思ってしまいがちだ。
けれど、そうじゃないんだ。
ほんとうのところ、「不機嫌で駄々こねて喜怒哀楽に振り回されてエゴにまみれて怖れ満載で思い込みもブロックもバリバリあってメンヘラでめんどくさくて犠牲してしまう」わたしこそ、愛おしいと思って生きていきたいんだ。
こんな僕を、もっと愛しておくれよ。
どんなあなたでも、もっと愛していくよ。以上。
その2行を伝えるのに、ずいぶんと長文を書いてしまうあたり、わたしはやはりめんどくさい男なのだろうと思う。
けれども、それでいいんだ。
それが、「わたしの在り方」なんだから。