今日は立春、春立てる日。
まだまだ寒い日が続くが、平安の昔の歌人が、
袖ひちて むすびし水の こほれるを
春立つけふの 風やとくらむ
夏には袖を濡らした川の水は、寒い冬の間に凍っていたが、立春の今日の風が吹いたことで溶かしてくれるのだろうか、と詠んだように、季節は移ろっていく。
そう聞くと、身を切るような朝の冷たい風の中にも、春の息吹が微かに感じられるように思えて、不思議なものだ。
やはり、人の心の持ちようというのは、偉大な力を持つようだ。
旧暦では、今日が一年の始まりだった。
調べてみたら、今の暦、太陽暦を使い始めたのは明治6年、1873年のことだそうだ。
それからわずか150年ほどしか経っていないと考えると、月の満ち欠けで暦を呼んでいた歴史の方が、ずっと長いと言える。
そう思うと、旧暦の意識が、わたしたちの心の奥底に残っていたとしても、何の不思議もないように思う。
歯磨き粉、消しゴム、下駄箱、筆箱・・・
いまはもう使われていないのにもかかわらず、言葉の中にその名が残っているものも多々あるのだから。
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そんなことを思いながら、朝玄関のドアを開けた。
路面は濡れていたが、昨日の夕方から降り出した雨は上がったようだった。
空気は澄んで、東の空が黄金色に輝いていた。
つい先日まで、この時間の朝焼けは、夕焼けに似た暗みのかかったオレンジ色だと思っていたのに、ほんの数日間で世界は変わる。
いや、変わったのはわたしの内面の意識だけなのかな。
目に映るすべては、このわたしの内面の世界を余すことなく見せてくれる。
そう思いながら、歩いていると、見慣れない灰色の鳥が道の真ん中をトコトコと跳ねていた。
まるで先導するように、その鳥は跳ねながら2、3メートル歩いていく。
どこへ導いてくれるのかわからなかいけれど、わたしはその屋上を見上げながら、しばらくその小さな身体が歩いた道のあとをたどって歩いた。
濡れた路面のいくつもの輝点が、歩くたびにかたちを変えてささやきかけてくるように見えた。
ふと思い出したように立ち止まり、その鳥は小さな身体をそのままにして首だけをこちらに向けると、おもむろに飛び立っていった。
チチチ、という微かな声が聞こえながら、すぐに小さな身体は隣のマンションの屋上まで飛んで行った。
見上げた首を戻して周りを見渡すと、電柱に巻き付いた蔦が、稲穂の刈りとられた田んぼが、ところどころに水たまりの見える路面が、雫のしたたる電線が、東の空からの光線に照らされていた。
水滴はその光を吸って、自ら光っているようにいくつも輝いている。
世界は黄金に輝いていた。
そういえば、正月に初日の出を見たときも、同じような黄金色だったような気がする。
あの見慣れぬ灰色の、春を告げてくれた鳥は、いったい誰だったのだろう。
そんなことを考えながらも、新年の清々しい心地が二回も味わえるのも、いいものだと思う。
もう、すぐに春だな。
吐く白い息を手に当てながら、わたしは往く冬を惜しんだ。