大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

如月ついたちにパートナーシップについて想うこと

いつからか、空の写真を撮るのが好きになった。

 

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流れる雲のかたち、

 

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太陽の光の加減、

 

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季節による青色のトーンの違い、

 

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内省を促すようなモノトーンの夜空、

 

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暖色のグラデーションのような夕暮れ・・・

 

ただ一時として同じ風景のない空を見上げることは、いつも過去に執着して未来を患うわたしの意識をいま、ここに呼び戻してくれる。

 

月替わりの今朝は、変わった空を見上げたくて、マンションの上まで登って朝日を眺めていた。

 

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この時期の朝焼けは、まるで夕暮れのようだ。

自分の周りの朝のひんやりとした清浄な空気と、夕暮れの寂寥感とがアンマッチで不思議な気分になる。

 

もうすぐに節分、そして春が立つ日が訪れる。

雄大な空を見ながら、季節の移ろいを想う。

 

千歳の昔の歌人

 

春きぬと 人はいえども うぐいすの

なかぬかきりは あらじとそ思う

 

と詠ったように、大寒を過ぎたばかりで凍てつく風に手を重ねるこの時期に、春を感じるのはなかなかに難しい。

 

 

不思議なことに、空の写真を撮るのが好きなると、日常のごく細部を撮ることも好きになった。

 

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さまざまな表情を見せる路傍の花や、

 

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ふと見上げた灯りや、

 

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家の外壁に美しい虹を見たり、

 

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寝転がった縁側で見上げた灯りだったりする。

 

意識しないと見逃してしまう微細なところに、おどろくほど豊かな世界が広がっていることに気づいたのは、写真を撮るようになった大きな恩恵だった。

 

何も変わらぬ日常の風景の中に、かならず「なにか」があった。

 

今朝も冷たい風に身をすくめて歩いていると、木々の小枝の間から新芽が見えていた。

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遥かな空の彼方を見上げる目と、足元の数センチの世界を見る目。

両の極は、生を豊かにしてくれるようだ。

 

灼熱の陽射しに照らされて額にかいていた汗は、

いつのまにか凍てつく冷気の中でかじかむ指先に吹きかける白い息になる。

 

両の極に振れたときに、わたしはいまここにいることを知る。

 

何も起きていないし、どこへも行っていない。

 

 

考えてみれば、自分の可能性を広げてくれるのは、いつだって反対の極だ。

 

いままでやってきたことが行き詰まったり、成果が出ないとするならば、「その望む場所に到達するための方法は、自分の枠の中にはない」ということの明確な証明なのだから。

 

自分の枠の外の、もっとも遠い対極にある方法、絶対にありえないと思われる方法こそが、その状態を打開するカギを握っている。

 

貯蓄と消費、

規律と奔放、勇気と怯懦、

執着と手放し、自由と制限、我欲と献身、

理性と感情、寂しさとつながり・・・

 

わたしたちは両方の極に触れることで、可能性を広げていく。

 

それは、季節がめぐるように両の極をめぐるだけだ。

やがて、生まれた季節に還りゆく道。

 

両の極、すなわち陰陽。

 

その両端に触れることは、目に映るものすべてが自分であり、自分に必要なものだと教えてくれる。

 

春のささやきも、夏の気怠さも、秋の清涼も、冬の緊迫も、すべて。

 

 

ところが、絶対に触れられない極が、わたしにはある。

いや、この世に生きる人の全てが触れられない極。

 

性別、すなわちジェンダーではなくセックスとしての性。

男性としてのわたしが、触れることのできない極。

 

だからこそ、パートナーシップは難しくも奥深いのだろう。

 

身体も頭の構造も、全く異なるのだから。

 

 

もちろん、パートナーシップの基本は「自分との」パートナーシップ。

 

自分で自分をぞんざいに扱ったり、自分との約束を簡単に破ったり、自分のことをないがしろにしている間に感じる欠乏感は、パートナーが埋めてくれることはない。

 

それはとりもなおさず、自らの内側にある男性的な部分と、女性的な部分を受け入れることに他ならない。

 

どんな男性の中にも、可憐な姫のような要素があり、

どんな女性の中にも、勇敢な騎士のような要素がある。

 

その両極に触れ、両者が仲良くすることで、「自分」というものを尊重できるようになる。

 

ここに至ると、欠乏感を埋めるために他者を求めることは少なくなる。

 

 

非常にセンシティブなところなので、言葉の表現に迷うのだが、

 

わたしにはあなたが必要なの

僕は君と一緒にいることが幸せなんだよ

 

という言葉の裏には、

 

あなたがいないとわたしはダメなの

僕は君と一緒にいないと不幸せなんだ

 

という欠乏感やら怖れやら、といったネバネバしたものが含まれる。

 

ネムーン期には最上級の愛の表現だったこれらの言葉が、耳障りな呪詛に聞こえるようになってからが、いよいよほんとうのパートナーシップの旅が始まる。

 

すったもんだの痴話喧嘩から、米ソを超える冷戦から、キューバ危機を経て、自立したパートナーシップへと船は漕ぎだしていく。

 

ベルリンの壁が崩壊したと思っても、思いもよらぬ超大国がアジアから侵入してきたり、サブプライムローン問題に端を発する金融危機が訪れたり、そのプロセスは世界史よりも奥深く、盛りだくさんに綴られる。

 

そのプロセスで常に問われること。

 

それは自分自身の生への信頼だ。

 

強がりでも拗ねでも我慢でも犠牲でもない、

 

あなたがいなくても、わたしはだいじょうぶ

 

という自分への信頼。それはすなわち、

 

わたしがいなくても、あなたはだいじょうぶ

 

という相手への信頼と、同時に起こる。

最も近しい人は、最も正確に自らの姿を映し出す鏡なのだから。

 

そここそが、パートナーシップの終わりと始まりが集う場所だ。

 

それはまるで、凍てつく冬の終わりと、麗らかな春の始まりが集う立春のように。

 

 

信頼するとは、解放すること。

 

自分も、相手も、執着や義務や常識や依存から、解き放つこと。

 

お互いが自由に、自分の人生を選べる、ということ。

 

そうしたときに、「じゃあ、なんでこの人と一緒にいるの?」と聞かれたら、どう答えたらいいのだろうか。

 

空を見上げるように、

路傍の花に目を凝らすように、

 

いま、なんとなく好きだから、楽しいから一緒にいる

 

ということになるんだろうか。

 

そこには、過去の恨みつらみも、未来の憂いも必要がない。

ただ、なんとなく、いま一緒にいたいから。

 

それが、自立したパートナーシップなのではないかなぁ。

 

まだまだ、道遠し、というところか。

 

そんなことをつらつらと考えた、如月のついたちだった。

 

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