大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

返歌。

自分の中で思い出したくもない宿痾のような光景を、

10月のおわりに衝動に駆られて書き殴った。

溢れる水を受け取れなかった男の話 - 大嵜 直人のブログ

周りの善き人の好意を、ずっと受け取れなかった話だ。

多かれ少なかれ、ずっと私は周りから受け取ることを拒否してきた。

いまキーボードを叩く指が震えるのが、その受け取ることへの抵抗の、確たる証拠のように思う。

差し出される愛を受け取るには、

ただニッコリ笑って「ありがとう」と受け取ること。

そんな単純なことが、ずっとできなかった。

だから犠牲にして、卑下して、癒着して、自分の価値を受け取ってこなかった。

「痛み」を冷凍保存していると、受け取るスペースがなくなる。

消化しきれない「痛み」がべっとりと臓腑にへばりついた状態で、

差し出されるものを受け取ることは難しい。

それが「痛み」か「薬」か「毒」か分からないからだ。

そのとき、経験則にしたがって「それは『痛み』なんだ」と、

受け取らずに空腹でいることを、人は選ぶ。

再びこの身体を蝕む「痛み」を食らうくらいなら、

空腹に身を任せた方がいい。

ひらたく言えば、

人間の悪意にひどいことをされ、こっぴどく痛い目を見た野良犬が、

それを知らぬ人間が善意で差しのべた手に噛み付くようなものだ。

それは、防衛本能だ。

私の中にも、まだたんまりとそれがあるようだ。

だからどうしよう、ということもない。

問題は解決しようとするほどに錯綜する。

もう、それが、私なのだ、と笑おう。

それでも、いままで出会った善なる人たちの無償の愛を想うと、

受け取れなかったものの大きさに愕然とするし、

またその罪悪感で自分を罰したくなる。

それでも、

それはそれとして、

もう、それが、私なのだ、と笑おう。

それが、私なのだ。

無条件に自分を肯定する、とはきっとそういうことなのだろう。

玉置浩二さんの「田園」が好きだ。

長すぎる静かな夜に、よく聴いていた。

サビの部分の最後、一番では

僕がいるんだ みんないるんだ

愛はここにある 君はどこへもいけない

なんだけど、二番になると

僕がいるんだ みんないるんだ

そして君がいる 他に何ができる

になって、ラストのコーラスでは

僕がいるんだ 君もいるんだ

みんなここにいる 愛はどこへもいかない

に移り変わる歌詞が、本当に好きだ。

同じメロディなのに、違う調に聴こえる。

そうなんだ、

そうだったんだ。

みんなここにいる。

愛はどこへもいかない。

そして、

愛はここにある。

僕はどこへでもいける。