大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ずっと、絵を描きたかったんだ。

ジュリア・キャメロン著「The Atrtist's Way(邦題:ずっとやりたかったことを、やりなさい。)」の実践ワーク8日目。

「モーニング・ページ」を書き始めて6日目。

今しがた、びっくりすることが起こった。

自分がやりたかったことが、「絵を描くこと」だったと気付かされたのだ。

昨日、「大人の塗り絵」を買ったのだが、ブログを書いていざ色塗りをしようとしたところ、心理的な抵抗がものすごくて眠くなって、結局塗れなかった。

まあそれにも意味があるのだろう、と思って今朝、モーニング・ページを書いていたら、出てきたのが、

「本当は、ずっとずっと絵を描きたかったのかもしれない」

というフレーズだった。

これには驚いた。

昨日書いたように、私には絵を描く才能はまったくないと思っていて、それこそ学校でも美術は人並以下の成績だった。

それでも、なぜか美術館が好きだった。

名古屋市の白川公園にある名古屋市美術館や、豊田市美術館、東京で下宿していたときは、上野の国立美術館などなど、考えてみれば絵を観に行くことがなぜかあったのだ。

もしかしたら、ずっとずっと絵を描きたい、という私の中の小さな小さな子どもの欲求を、ずっと

「お前はヘタクソだから、描く価値なんてないよ」

とひどい言葉を投げかけて、ずっと無視してきたのかもしれない。

そう思ったときに、モーニング・ページを書きながら涙があふれた。

そうか、ずっと自分は絵を描きたかったんだ。

ごめんな、今まで無視して、ひどいことしてきたな。

ずっと、やりたかったんだよな。

これからは、気の済むまで、描こうな。

思う存分、絵を描こう。色を塗ろう。

そんな言葉を書きながら、朝から涙が止まらなかった。

キャメロン氏は、「モーニング・ページ」を書いていると思いもよらなかったことに気づいたり、やりたいことが出てきたりする、と言っているが、まさにその通りだと思った。

何の役にも立たないし、絵の素養もまったくないし、それをしたところで何かにつながるとか、誰かのためになるとかは、全くない。

ただ、自分だけのために絵を描きたいのだ。

飽きるまで、描いてみようと思う。

まずは、買ってきた「大人の絵本」の塗り絵からはじめよう。

この話につながるのだが、「モーニング・ページ」とは別にある「今週の課題」をやっていく中で、私がその「絵を描きたい」という欲求を抑えるようになったことで、思い当たる節がある。

タイム・トラベルその1。あなたの創造性を邪魔する三人の敵をリスト・アップする。できるかぎり具体的なほうがよい。過去にあなたの創造性を妨げた怪物は、あなたの否定的な思い込みの土台であり、言ってみれば、あなたにとっての怪物の殿堂である。回復が進めば、より多くの怪物が浮かんでくるだろう。創造的な傷を認識し、深く悲しむことが絶対に必要だ。さもないと、それらが傷跡になり、成長を妨げるようになる。

第1章「安心感を取り戻す / 今週の課題」 p.57

怪物、という訳ではないが、過去を振り返っていくうちに、自分の絵心を否定する出来事をいくつか思い出してきた。

今まで、ずっと思い出すことなどなかった出来事だった。

一つ目は、小学校5年生のころだと思うが、生徒会みたいなものの選挙。

クラスで候補者を最低一人は擁立しないといけないのだが、私のクラスでは誰も立候補する者がいなかった。

自薦か他薦かはよく覚えていないのだが、そこで私が選ばれた。

まあ成績がよくて、先生にとって従順で空気を読む子だったからかもしれないし、いまとなってはよく分からない。

今はどうかはわからないが、当時の私の小学校の生徒会いうのは、足が速かったり、運動ができたり、快活で人気者の生徒たちがなるものだと相場が決まっていた。

しかし、私のパーソナリティといえば、その全く逆だった。

運動神経は鈍いし、快活でもないし、友達が多いわけではない。

これは困ったことになった。

負け戦を、やらないといけない。

そして、当時の私の小学校の選挙は、立候補した生徒が自分のポスターを作成して、校内に貼って選挙活動をするという流れになっていた。

他の立候補者は、テレビや漫画の人気のキャラクターの絵を描いて、自分の名前をその横に書くようなポスターを描いて、貼っていた。

ところが、私のクラスの担任は「漫画のキャラクターが立候補するわけじゃない。自分の顔を描きなさい」と私に言ったのだ。

言いたいことはわかる。ごもっともだ。

それでも、考えてもみてほしい。

いわゆるスクールカーストで下位の目立たない上に絵のうまくない人間が、自画像描いてアピールしろ、というのだ。

しかも、周りの人気者たちは、絵の上手い友達に手伝ってもらったりして人気のキャラクターを上手に描いている中で、だ。

思い出しただけでも、ご無体にもほどがある。

それでも、従順だった私はその先生の言うとおりにポスターに自画像を描いた。

自画像なので、誰かに手伝ってもらう訳にもいかない。

下駄箱から校内に入ってすぐのところに設置されたポスターの掲示板のなかで、ひときわ私の描いたポスターは異彩を放っていた。

誰の顔か分からない水彩画の人物像の横に、申し訳なく自分の名前が書かれている。

「なにこれ?誰が描いたの、この下手な絵?」

いや、それは俺が聞きたい。

頼むからもう剥がしてくれ。

毎日、そんなことを思っていた気がする。

そんな拷問のような選挙期間を終えて、体育館でスピーチをさせられ、下馬評通りに私はぶっちぎりの最下位で惨敗した。

先生の言うことを聞いて、一人で頑張ったら、絵はけなされるし、選挙にはぶっちぎりで落ちるし、さんざんな経験だった。

あのときの担任も思うところがあって、私を指導したのだとは思う。

書いていて思い出したのだが、選挙で落ちたときにバツが悪そうに言われたのが、

「少ないかもしれないけど、自分に投票してくれた人がいるんだから感謝しなさい」

という言葉だった。

それは、正論だと思う。

けれども、スクールカースト下位のぼんやりした人間が、自分の描いたヘタな自画像を揶揄されながら、選挙で惨敗するという、あの自己肯定感ダダ下がりのシチュエーションで欲しかったのは、

「よく頑張った。自分で頑張ってポスターを描いたことが、素晴らしい。残念ながら結果はでなかったけれど、それはあなたの人間としての価値とは全く関係がないんだよ。あなたはあなたで、そこにいるだけで素晴らしい。」

という傷への寄り添いと、無条件の自己受容をすすめる言葉だったのだ。

もう今更さら、あの先生にどうこうもないけれど、あの出来事があってから、私のなかで絵を描くことは自己否定とつながっていった気がする。

けれど、先生にかけて欲しかった言葉は、今の大人になった私がかけてあげればいい。

「何も恥じることはないよ。絵が描きたかったら、気の済むまで描こうね」

そう、何度でも何度でも語りかけてあげようと思う。

それにしても、モーニング・ページはいろんなことを見せてくれる。

今日は塗り絵をできるといいな。

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