昨日のエントリーの続きで、「信じる」ということについて。
「信じる」ということは、人生の前提をつくる。
昨日は満月だったけれど、欠けてもまた満ちると信じるのか、欠けるともう戻らない、と信じるのか。
人は簡単に信じると裏切るから、信じてはいけない、と信じるのか。
どうせ私は愛されないと信じるのか、どうしたって私は愛される、と信じるのか。
その前提の違いは、人生という海を渡る航路を大きく変える。
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これだけ情報があふれる時代のこと、何を信じてもいい。
その逆に何を信じてはいけない、ということもない。
自分が信じるものに、何度でも舵を切り直せばいい。
それはまるで同じ航路の往く二つの船が、反対に舵を切ったように、徐々に徐々に、しかし確実に、大きく航路を変えていく。
自分の気に入らない航路にであれば、何度でも舵を切り直せばいい。
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それはもちろんそうなのだが、その一歩前に大切だと思うことがある。
「何かを信じる自分」を信じてあげる、ということだ。
月並みな言葉だが、自分を信じる、ということ。
それは、自分の土台を信じる、ということ。
自分が生まれた縦軸としての「血(blood)」と、自分が生まれた横軸としての「地(land)」。
それは、誰にも奪われないし、自分だけのものであるし、自分でしか消化できないものでもある。
それに根付いて選んだ「信じるもの」は強い。
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夕焼けに泣いたあの日。
心躍ったあの夏祭り。
初めて自転車に乗れた公園。
セピア色の写真の中で笑う祖父と祖母。
心地よい車の揺れにうとついた旅行の帰り路。
父の書いた、角張った文字。
三面鏡に座っていた母の背を見たのは、卒業式の日だったか。
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ただただ、自分を信じること。
自分を産んだ血(blood)と、自分を育んだ地(land)を信じること。
今まで出会った人を、信じること。
そしてこれから出会うであろう人を、信じること。
ただただ、自分を信じること。
ただただ、自分を信じること。
信じるとは、切断すること。
迷いを断つ、ということ。
信仰とは、何がしかを信じる自分を信じている、ということを指す。
ただただ、自分を信じること。
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「信じる根拠は?」と言われても、「ないよ」と答えるしかない。
だから、自分を信じることに、根拠なんて求めなくていい。
ただただ、自分を信じること。
いま、そこに身体があること。
いっときも休むことなく、その心臓がビートを刻み続けていること。
目に見えない空気を、いまも吸い込んで、吐いていること。
朝には髭が伸びていること。
この世に生まれたことを、心から喜んでつけられた名前があること。
その瞬間に、笑ってくれた人がいたこと。
ただ、そこに当たり前にあるのだから。
自分を信じることに、根拠なんて求めなくていい。
ただただ、自分を信じること。
ただただ、自分を信じること。