人が生きていれば、いろんな「不安」を抱える。
健康の不安、お金の不安、未だ見ぬ将来の不安、言語化できない不安・・・
人それぞれ、十人十色の「不安」がある。
「不安」とは、ネガティブな未来を予測する能力と言い換えられるのかもしれない。
そうしてみると、「不安」とは私たちの祖先が太古の昔、暗闇に肉食動物が潜んでいることを、いち早く察知するために発達させた能力なのかもしれない。
未だ姿の見えぬ外敵を捕捉するために、木々のゆらめきや鳥のざわつきに異変を感じ取り、微かな音にも違和感を覚えることのできる鋭敏な力こそが、生存率を上げた時代があったはずだ。
「不安」とは、おそらくその能力の名残。
そうして遺伝子に組み込まれた「不安」を、無理に消すことは難しいのかもしれない。
そう考えると、「不安」は打ち消そうとするよりも、「不安よりも大切なものが何か」と問いかけることの方が大切なように思う。
=
2005年公開のフランスの映画、「皇帝ペンギン」。
私は小さい頃からペンギンが好きで、家にあった図鑑の中で「ペンギンの図鑑」を日がなめくっては、南極の幻想的な風景とそれに似合わぬ愛嬌のあるペンギンの写真に見とれていた。
この映画も公開されてからDVDを買うほどに大好きな映画になった。
地球上で最大のペンギン、皇帝ペンギン。
冬の南極大陸で過酷な寒さに耐え、繁殖を行う唯一の生物。
極寒の南極では外敵が少ない代わりに、他の生物の影もなく食糧もない。
そんな真冬に皇帝ペンギンは産卵し、父鳥が卵を温めている間に母鳥が海岸まで百キロもの道のりを行く。
母鳥が食糧を捕りに海岸と繁殖地を往復する約2ヵ月にもおよぶ期間、父鳥は絶食して卵を温め続ける。
ヒナが孵ると「ペンギン・ミルク」と呼ばれる、自らの胃壁を溶かした液体をヒナに与えて、母鳥の帰りを待つ。
約2ヵ月もの絶食に耐えた末に母鳥が戻ると、父鳥はようやく痩せこけた身体を引きずり、海を目指し歩きはじめる。
交代で母鳥が絶食期に入り、蓄えた胃の中の食物をヒナに与える。
こうした世界一過酷といわれる繁殖活動を撮影した映画「皇帝ペンギン」は、何度見ても胸を打つ。
一方のパートナーの帰りを待つ間、彼らは何を見ているのだろうか。
極限の世界の中に見える奇跡のような皇帝ペンギンの生態と、息をのむほどに美しい南極の絶景が見られる、私の大好きな映画である。
=
映画「皇帝ペンギン」を見ていると、あの厳しい猛吹雪の中、耐えているペンギンたちは「不安」ではないのだろうか、と思う。
パートナーの帰りを待つ間、もしも彼や彼女の身に何かあったら、という「不安」は抱かないのだろうか。
ペンギンに感情というものがあるのかどうか分からない。
けれど絶食の極限状態において、卵から孵ったヒナの首筋をクチバシで撫でる姿を見ていると、そうした「不安」よりも「大切なもの」が彼らにはあるように思える。
それを「本能」と呼ぼうとも、「愛」と呼ぼうとも、それが彼らにとって「不安」よりも大切だからこそ、極限状態の猛吹雪の中でも耐えられるのであろう。
自分にとって、一番大切なもの。
これを自覚していると、何かへの不安で振り回されることが少なくなる。
自分は何のために生きているのか。
言い換えるならば、
自分は何のためになら死ねるのか。
自分の墓碑に、「何のために生きた」と彫られたいのか。
それを明確にすることは、たとえ「不安」になったとしても意識をもう一度原点に戻してくれる。
それは「愛する家族」や「見果てぬ理想」といった、分かりやすいものではないかもしれない。
もしかしたら、他人から見ればくだらないものかもしれない。
舞台の上で光悦となる瞬間かもしれない。
惚れた女に褒められたいという小さなプライドなのかもしれない。
どんな不細工な私でもいつも「綺麗だよ」と言ってくれる男なのかもしれない。
アニメの二次元の女性の美しい声なのかもしれない。
それでいいのだ。
傍から見れば、くだらないもの。
上手い下手、損か得か、生産性があるかどうか、世の人の役に立つかどうかなど、関係ない。
それがいいのだ。
わたしにとって、これがない人生って、生きていても屍同然だな、と思えるほどに「大切なもの」。
そう考えてみると、「不安」の対象はその「大切なもの」になり得ないはずだ。
お金、老後、嫌われること、孤独、才能の有無、健康・・・
おそらくそのどれもが、「大切なもの」の中心にはなり得ない。
それらの「不安」は、風に揺れる単なる木々のざわめきにしか過ぎない。
そこに肉食動物やティラノサウルスはいないのだ。
=
自分にとって、一番大切なもの。
それは、「不安」を押しのけて「いま」を生きることを可能にしてくれる。
それが何なのか、自らに問い続けることが大切だ。
いま明確でなくても、それはすべての人の胸のうちに、必ずある。