大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

無価値感の罠 〜私が本当にエネルギーを使いたい人は、誰なんだろう

「無価値感」とは、自分には何の価値もないと感じてしまう感情のこと。

 

それが強くなると、自分が本当に大切にしたい人とそうではない人とに向けるエネルギーのベクトルが真逆になるようです。

 

けれど、「無価値感」は愛情ゆえに形成されるものであり、それを癒すのもまた愛情なのだと思うのです。

 

= 

 

「無価値感」とは、言い換えれば自分には価値がないと感じてしまう感情のことです。


心のお話をさせて頂く際によく出てくる、「自立」と「依存」という区分でいくと、「依存」の心理状態にある方がよく感じる感情です。

 

人は誰しも、生まれたときは完全なる「依存」の状態です。

 

ミルクを与えてもらい、
おむつを替えてもらい、
お風呂に入れてもらい、
暖かい寝床を与えてもらい・・・

 

生存にかかわること全てを、周りの保護してくれる大人にしてもらわないとできない状態です。

 

それが、

寝返りをうてるようになり、
かまり立ちをできるようになり、
スプーンを使って食事をするようになり、
トイレも一人でできるようになり・・・

 

日々、できることが増えていき「自立」への道を一歩ずつ歩んでいきます。

そして、その中で親もまた少しずつ「自立」を促すようになります。

 

オムツを替えたり、あやしてくれたり、ご飯を口に運んでくれたり、抱っこしてくれたり・・・いままで何でもやってくれていたのに、「今日は一人でやってみようか」「もう自分で出来るでしょう?」というように。

 

そうすると子どもとしては、「今までずっと身の回りのことを、お世話をしてくれていたのに」と感じることも増えてくるわけです。

 

自分の無力さを知り、それを克服するために、頑張って一人で着替えをしようとしたり、一人でやってみようとすことで、人は「自立」への道を歩み始めます。

 

やがてそれは身の回りのことだけに限らず、「しつけ」、「お手伝い」や、「学校の成績」、「親戚の前での振る舞い方」にいたる中で、私たちは「どうしたら愛されるか」を成長していく中で研究していきます。

 

しかし、その「どうしたら愛されるか研究」の多くは、私たちは「何かをしないと愛されない」という思い込みを生みます。

 

お手伝いをしていたら、お母さんが喜んでくれた。

ニコニコしていたら、お父さんが優しかった。

おとなしくじっとしていたら、叱られなかった。

・・・こうした経験から、私たちは「自分は何もしなければ愛される価値がない」という思い込むようになります。

 

それが、ほんとうに自分がやりたくてしたいことであればいいのですが、ときに自分の言いたいことを我慢して、自分を押し殺して、自分のやりたいことを犠牲にしてまで、それをやってしまいます。

 

それはある意味で仕方のないことだとも言えます。

 

だって、それだけ親を愛していて、親に笑顔でいて欲しいと願っているのですから。

 

それがいい・悪いは置いておいて、平気で我慢や犠牲をしてしまうくらい、子どもが親を想う愛は強いものだ、ということだと思います。

 

 

けれど、そうした愛されるために自分を犠牲にしたり、我慢をしたりすることを重ねていくと、先に述べた「無価値感」を強めていきます。

 

何かをしなければ愛されないのだとしたら、何もしない自分に愛される価値などない、と徐々に思い込んでしまうわけですね。


この状態だと、もしも相手が自分に何か素晴らしいものを与えてくれたとしても、「いやいや自分なんて・・・」と謙遜してしまったり、「いや、あれは私がこれだけ尽したから与えてくれたんだ」と感じてしまいます。

 

まさに自分には価値がないと感じる、「無価値感」そのものですね。

 

私も例に漏れず無価値感が強かったので、周りの人の愛情や思いやりといった大切なものを受け取れていなかった場面というのは、よく思い浮かびます。

 

「すいません、私なんかに」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
「いや、そんなことないです、本当に」

そんな台詞をよく言っていました。

 

そして、周りの人の愛情や思いやりを、「ありがとう、嬉しいな」とニッコリ笑って受け取ることはできず、逆に「私なんかに申し訳ない。もっと身を粉にして頑張らないと」と思ってしまいました。

 

そうして人の力も借りず、自分を犠牲にして頑張ろうとするわけです。

 

何かをしないと愛されない。

 

その蟻地獄のような想いの先に待っているのは、「もうこれ以上、頑張れない」という、いわゆる燃え尽き症候群デッドゾーンと呼ばれる荒野しかありません。

 

私もそうでした。

 

= 

 

さて少し話が逸れましたが、この「無価値感」が強い状態でいると、自分の大切な人とそうではない人へ向けるエネルギーが真逆になります。

 

自分を大切にしてくれて、愛してくれて、尊重してくれる、そんな人には「無価値感」から「いえいえ、そんなことは・・・」と謙遜したり遠慮したりして、その人を遠ざけるようになります。

 

一方で、自分のことをぞんざいに扱い、敵意を持っていたり、悪口を言っていたりする人には、「人には嫌われたら生きていけない、あの人に好かれないといけない気がする」と、なぜかへりくだってみたり、自分を卑下して接してみたり、ものすごく気にしてみたり・・・ということをしてしまいます。


悲しいことに私の経験則上、そのアプローチが効いて大切にされることは、実際にはあまりないのですが・・・

 

「自分を尊重して愛してくれる人」と付き合うのと、「自分をぞんざいに扱う人」と付き合うのが、どちらが人生イージーモードか考えてみると、答えは一つしかありません。


10人のうち8人にぞんざいにされたり嫌われたところで、残りの2人と付き合っていれば、とても幸せを感じられると思います。

 

それなのに「無価値感」が強いと、8人の方にフォーカスしてしまいます。

自分をぞんざいに扱う人であったり、または自分の嫌いな人であったり。

 

ええ、私もこの「無価値感」まだまだ思い当たる節がありますね。

 

そんなやっかいな「無価値感」ですが、それを癒すのもまた愛情だと思うのです。

 

それは誰か周りの人に愛情を与えてもらう、ということではありません。
自らの心のうちに眠る愛情を思い出すことです。

 

 

もしも、あなたの幼い頃の写真がお手元にあれば、少し引っ張り出して眺めてみてください。
その写真のシャッターを切ったのは、どなただったのでしょうか。

 

運動も、
学校のテストも、
お手伝いも、
会社のお仕事も、
別にきちんとしていなくても、
何もちゃんとしていなくても、

 

ただあなたがそこにいて泣いたり笑ったりしているだけで、周りの人を幸せにした時間が、これまでに必ずありました。

 

少なくともその写真は、そんな幸せな気持ちのどなたかがシャッターを切ったように感じられませんでしょうか。

 

ただ、あなたはそこにいるだけで、愛されていい存在です。

 

生まれてきてくれて、ありがとう。

あなたはそこにいてくれるだけで、周りの人は笑顔になる。


ただ、それを思い出すだけなのです。

 

そんな時間を持てると、いまの自分を大切にしてくれる人にエネルギーを向けられるようになると思うのです。

 

 

今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。

どうぞ、ごゆっくお過ごしください。

 

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※無価値観については、よろしければこちらのエントリーもあわせてどうぞ※

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

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