大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

言葉に救われることもあるし、傷つけられることもある

いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。

今日は「言葉」の持つ力と、その影の部分について綴ってみたいと思います。

 

私がこうして自分の書いた文章を不特定多数の人に向けて晒すようになったのは、ちょうど一年ほど前でした。

それは自立をこじらせて人間関係で悩み、心の世界を学ぶようになってから一年ちょっとが経った頃です。

学ぶこと=インプットがその時点の自分にとって飽和状態になると、それをアウトプットしないと消化不良になるときが来るようです。

当時の私は特にそんな意識はなかったように思いますが、お腹いっぱいの学びや情報を消化する場として、手始めにFacebookに自分の書いた文章と撮った写真を投稿するようになりました。

コミュニケーション・通信の手段といえばメールくらいしか使っていなかった私からすると、狩猟時代からいきなり飛鳥時代くらいにワープしたような変化でした。

ええ、そりゃ稲作も卑弥呼も仏教伝来もすっとばしたような感じで、日々驚きでした。

恐る恐るも日々投稿をしていく中で、一つ考えていたことがありました。

それは、人を傷つける言葉にならないようにしたい、という思いでした。

例えば、やはり小さな先生=我が子から学んだことを伝えたいと思って綴った文章があったとしても、
もしもその子どもについて書いた文章を子どもができなくて悩んでいる友人が読んだら傷ついてしまうかもしれない。

美味しいお酒と肴に出会える喜びを伝えたいと思ったとしても、
お酒が呑めなかったり、何かの食物アレルギーを持っていたりする方が読んだら不快に思うかもしれない。

私のすでに鬼籍に入っていた親との関係からくる問題や葛藤、そしてそれが最終的にもたらす癒しについて伝えたいと思った文章が、
もしからしたら私と異なる形での親との葛藤に悩んでいる人にとってはさらに胸を痛めることになるかもしれない。

そんな風に考えていて、悶々としていた時期がありました。

 

言葉には力があります。
意図するかどうかは別として、それが時に人を傷つけることは、確かにあります。

単純な罵詈雑言のみならず、先に挙げたように「親子の幸せな時間」を描いたような言葉であっても、それに傷つく人がいないとは絶対に言いきれないと思うのです。

そして、その逆に言葉の力に救われる人がいることも、また事実です。

思うに、そんな言葉の力は「刃物」のようなものだと思うのです。
鋭利に研がれた包丁は、美しく切っ先が立ったお刺身を生み出しますが、同時に人を傷つけることができるのもまた事実です。

包丁が人を傷つけるとこのできる道具にもなりえるし、言葉もまた意図しようとそうでなかろうとも、人を傷つけることがある。

もしそうだとしても、その上で、私は言葉に救われたことの方にフォーカスしたいのです。

どれだけ気を使って表現しても、ときに意図しなかった傷をつけてしまうことは、恐らくあります。

1年近く経った今でも、それが怖くなるときがあります。

それでも。

伝えたいことがあるのなら、表現することを辞めるべきではありません。

それは自分が表現したいことを我慢してしまうことは、その表現で傷つくかもしれない人たちに対しての思いやりや謙虚さではなくて、その表現で救われるかもしれない人たちへの冷淡と傲慢だと思うからです。

そして何より、その自分の表現したいなにがしかを与えてくれた、今までの周りの人たちへの冒涜でもあると思うのです。

だから私は言葉の持つポジティブな面にフォーカスして、ここで日々言の葉を綴っていきたいと思っています。

 

今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。

近所では梅の花が満開です。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。