どんな生き方をしても、自分のルーツとなる血と地からは逃れられない。
何をしていても、
「あなたが生まれた縦軸としての血(blood)」と「あなたが生まれた横軸としての地(land)」は何ですか?という問いかけに必ずぶち当たる。
それは、料理でいうところのベースとなる下味の部分だ。
鰹出汁と昆布で引いてもいいし、飛魚出汁でもいい。コトコトじっくり煮込んだフォン・ド・ヴォーでもいい。
大切なのは、そのベースが自らの「血」と「地」から染み出てくる出汁かどうか、ということだ。
それを、
「あの人がいいと言っていたから干し椎茸の戻し汁にしてみた」とか
「高級食材だからアワビの煮汁がいいんだ」とか、
「カッコよさそうだからフュメにしてみた」とか、
「下味は無しでいいんだ」とか、
そんうすると、回し車の中でカタカタ走り続けるハムスターのようになる。
あの人の好みなのか、お金なのか、飾りなのか、延々と得られない充足感との葛藤になる。
それはまるで、
1977年有馬記念のトウショウボーイvsテンポイントか、
1996年阪神大賞典のナリタブライアンvsマヤのトップガンのような、
終わりなきマッチレースのようになる。
どちらも必見の名勝負。
昭和と平成、各々最高のマッチレースにはゴールがあるけれど、自分にフィットしない下味の充足感との渇望感の間の綱引きには終わりがない。
その終わりなき螺旋から降りるには、自分のベースを見つめることだ。
夕日を背に石ころ蹴って帰ったアスファルト
セピア色の写真の中で笑う祖母と祖父
母に手を引かれて遊んだ公園
ザリガニ釣っていてドボンした用水路
父のつくるあまり上手でなかった手料理
ケンカしてもフラれても通った田んぼ道
誰にでも、ベースとなる「血(blood)」と「地(land)」がある。
それは、すでにそこにあるものなのだ。
それを愛と呼ぼうと、故郷と呼ぼうとも何も変わらない。
ただ、当たり前のようにそこにあるものなのだ。