大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

「くるくる」と、いつかの後部座席の揺れについて。

急な所用ができて飛び乗った社用車は、普段あまり乗っていなかった軽自動車だった。

 

けれど、どこか、懐かしい気がした。

 

9月に入って、曇り空と癇癪のように降る雨の日が増えた。

 

その日もまた、分厚い雲が空を覆っていた。

 

エンジンをかけ、車を出す。

 

あまり乗っていない割には、運転しやすい感じがした。

 

陽射しはないものの、車内はむっとするような暑さがあった。

 

それでも、灼けるようなシートと、握れないくらいの熱さのハンドルだった8月を思えば、季節は流れるものだと思う。

 

冷房の操作がぱっと見た感じでは分からず、信号待ちまで我慢することにした。

 

窓を開けようとした。

 

ふと見たドアの内側には、操作しようとしたパワーウインドウのスイッチはなく、代わりに手動式のハンドルが、そこにはあった。

 

 

久しぶりに見た、レギュレーターハンドル。

 

ずいぶんと、懐かしい心地がした。

 

その懐かしさが、父の車の記憶だと気づくのに、しばらくかかった。

 

父が乗っていたセダンの窓もまた、このレギュレーターハンドルだった。

 

車種も正確には覚えていないが、確か、そうだった。

 

私はそのレギュレーターハンドルを「くるくる」と呼び、後部座席でくるくると回して、渋滞など暇なときの手慰みにしていた。

 

茶色系統の、内装だったように思う。

 

あのころは、高速道路で100キロを超えると、「キンコンキンコン」と警告音が鳴ったものだ。

 

いつの間にか、それらの設備も変わっていった。

 

レギュレーターハンドルは、パワーウインドウに。

 

100キロを超えても、警告音は鳴らなくなった。

 

日に灼けた肌が、いつの間にか剥がれ落ちていくように、いつそれが変わったのか、正確に思い出すことは難しい。

 

 

あまり長距離の旅行の記憶がない。

 

夏に、県内の海水浴場に行くときのドライブが、楽しみだったのを覚えている。

 

あとは、ごくたまに電車ではなく車で、ナゴヤ球場へ行ったことか。

 

なぜ、乗り物の揺れというのは、あんなにも眠気を誘うのだろう。

 

せっかくのドライブなのだから、起きていようと必死に眠気と戦っていたことを思い出す。

 

くるくると、ハンドルを回しながら。

 

記憶は、どこか過ぎ去った時間の一点ではないような気がした。

 

いまも、幼い私はそこで「くるくる」を操作していそうな。

 

 

その懐かしき「くるくる」を回して、窓を開けた。

 

車内に入ってくる外気は、生温かったが、どこか秋の匂いがした。

 

ぽつり、ぽつりとフロントガラスを雨粒が叩いた。

 

ほどなくしてその雨粒は滝のようになった。

 

どうも、ここのところの雨は風情のない降り方をするようだ。

 

私はまた「くるくる」を回して、窓を閉めた。

 

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眠り、愛、悩み、肩甲骨。

「おとう、トントンして」

 

めずらしく一緒に寝る、と言って隣にきた息子がそういう。

 

娘に比べて、寝つきが悪いのは赤子の頃からずっとだが、それにしてもその夜は寝付くのが遅かった。

 

ああ、と答えて、息子の肩をトン、トン、とゆっくりと叩く。

 

小さな赤子の頃、よくこうして肩をトントンとしたものだった。

 

ゆっくり、ゆっくりと一定のリズムで。

 

息子の呼吸と、自らの呼吸を合わせて。

 

寝つきの悪い息子のこと、どうしたら早く寝付くのか、いろいろと研究したものだった。

 

結局のところ、親自身が一緒に寝落ちするのが、最も確実な寝かしつけの方法なのだが。

 

私自身も、こうやって肩をトントンされて、寝かしつけをしてもらっていたのだろうか。

 

あまり記憶にはない。

 

寝付く側の方だから、当たり前なのかもしれない。

 

なんとなく思い出すのは、夏休みにひたすら近所の公園でセミ取りにいそしんだ後、午後の昼寝で祖母がうちわをあおいでくれていた風の感触だ。

 

あの頃は、まだ今ほど暑くなかった。

 

「クーラーは身体によくないから、できるだけ付けないで過ごしましょう」ということが、言われていたような気がする。

 

熱中症に警戒して、クーラーを適切に使いましょう、という今とは、隔世の感がある。

 

あのうちわの風は、心地よかった。

 

いつだったか。

 

ガムを噛みながら寝落ちをしてしまい、口の中の異物感を覚えながらも、眠気が勝っていたことがあったのだが、そっと口元にティッシュが差し出されたように覚えている。

 

愛されていたのだろう。

 

そんなことを考えながら、トントンとするのだが、息子は寝返りを繰り返していた。

 

何度かの寝返りのあと、息子はぱちりと目を開いた。

 

「おとう、うまくねむれない」

 

ああ、そんなときもあるさ。

 

そう答えながら、トン、トンと叩く。

 

多少寝れなくても、大丈夫だよ。それより、何か心配事か悩み事でもあるのかい?

 

「うん。ある」

 

どきり、として、肩を叩く手が止まる。

 

勉強のことか、友だちのことか、何か別のことなのか…小学校も低学年になれば、いろいろと考えること、悩むこともあろう。

 

自分がその歳くらいのときには、どうだっただろう。

 

身構えてしまう、私がいた。

 

ふう、と息を吐いてから、私は続けた。

 

そうか、誰にでもあるよな。何で悩んでるか、話せそうかい?

 

「うん」

 

息子はそう答えた。

 

何の悩み、心配ごとなのだろう。

 

頭はいつの間にか冴えて、高速回転を始める。

 

「あの」

 

うん、なんだい?

 

「かたが、こってるんだ」

 

こわばっていた全身が、弛緩した。

 

いや、大事な悩みだ。肩の凝りが、眠りを妨げている。由々しき問題だ。

 

そうか。肩が凝るのはつらいよな。

 

「うん」

 

揉んであげようか?

 

「うん」

 

こうして、私はうつぶせになった小さな背中を、ぐりぐりと指圧させられる羽目になった。

 

お父さん、肩を揉んであげようか、というのが定番だと思ったが、どうも違うらしい。

 

それにしても、凝っていると言う息子の肩の、なんと柔らかいことか。

 

とくに、肩甲骨の周り。

 

そのくぼみには、指が何本も入るくらいに柔らかい。

 

罪悪感の吹き溜まりともいわれるその場所は、ずっと触れていたいくらい、柔らかかった。

 

うらやましいかぎりだ。

 

「うーん、くすぐったい」

 

そりゃ、そうだ。

 

満足げな息子の肩を、またトン、トンと叩く。

 

肩もみが気に入ったのか、しきりに私の肩凝り遍歴について息子は訊ねてきた。

 

ずっと同じ姿勢がダメなんだぞ、と言うと、じゃあ勉強はしちゃだめだね、と返してきた。

 

いや、だから運動も必要なんだ、と返しておいた。

 

ほどなくして、息子は寝息を立て始めた。

 

いつか、どこかの。

 

自分の肩を、叩いているような。

 

そんな、気もした。

 

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書評:根本裕幸さん著「ギリギリまで我慢してしまうあなたへ『逃げる技術』」に寄せて

今日は書評を。

 

心理カウンセラー/セミナー講師/ベストセラー作家・根本裕幸さんの新著「ギリギリまで我慢してしまうあなたへ『逃げる技術』」(徳間書店、以下「本書」と記す)に寄せて。

 

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1.「逃げる」とは何か?

 

数年前に流行ったテレビドラマに、「逃げるは恥だが役に立つ」というタイトルのドラマがあった。

 

漫画が原作で、新垣結衣さんが主演のドラマだったと思う。

 

そのタイトルを聞くと、少しドキリとしてしまうが、本書に書かれていることは「逃げるは恥でもないし、役にも立つ」とでも言えようか。

 

このタイトルにドキリとしてしまうこと自体、「逃げる」ということへのネガティブなイメージを端的に表しているように思う。

 

それは軍国主義の名残なのか、それとも武士道の残り香なのか分からないが、「逃げる」ということに対して、一般的にはあまりよいイメージはないように思う。

 

某国民的大ヒットの海賊漫画に出てくる「背中の傷は剣士の恥」ではないが、正々堂々、正面切って、やり遂げることに美徳を見出す風潮は強い。

 

しかし、本書の中で「逃げる」ということを、このように定義している。

 

 私は逃げるということを「その場から一歩引くこと」と解釈しています。

 それは決して弱いわけでも、卑怯なわけでもありません。時に戦略的に必要な手段であり、気持ちを整えたり、視野を広げたりなどの効果も見込まれる方法です。

 また、逃げるが勝ち、という言葉もありますが、すでに述べた「競争心」や「犠牲」「期待に応える」などの状況から一歩引くことは、自分を必要以上に追い詰めないためにも重要なことと言えるでしょう。

 つまり、「逃げる」という選択肢を持つことは、自分や自分の大切な人たちを守るために重要な戦略の一つであり、また、逃げることで態勢を整えることができるのであれば、むしろ前向きな選択になるケースだってあるのです。

 

本書 p.62(強調部は本文のまま)

 

「逃げる」ということを、著者はあくまで「戦略的」な一つの手段としてとらえている。

 

一度身を引いて、全体を見渡し、態勢を整えてから、また仕切り直しをする。

 

それはあくまで一つの手段であり、そこに否定的な価値判断はなく、むしろ「前向きな選択」になることさえあると述べる。

 

考えてみれば当たり前のことで、かのユリウス=カエサルにしたって、呂布奉先にしたって、ナポレオンにしたって、織田信長にしたって、ずっと勝ちっぱなしというわけでもない。

 

時に訪れる不利な状況に、一時撤退したりしながら、大局を見ながら戦況を整えていった。

 

歴史に名を残す彼らでさえ、「逃げる」ことを厭わなかった。

 

「逃げる」とは、著者の言う通り「自分や自分の大切な人を守る」ために必要な一つの手段であり「前向きな選択」といえる。

 

2.逃げられない人たち/なぜ、逃げられないのか?

 

さて、著者の述べるところの「逃げる」ことの積極的な意味を確認したが、では私たちは何から逃げられないのだろうか?

 

まさかローマ軍から、というわけでもない。

 

それは、人の心が執着しているもの(あるいは人)である。

 

本書の中には、「逃げられない人たち」の例がたくさん出てくる。

 

大事なプロジェクトを任され、仕事から逃げられない女性。

赤字の店舗とその従業員を何とかしようする経営者の男性。

暴言を吐くモラハラ夫から離れられない女性。

国家資格を取るためにと、専門学校とバイトと勉強と頑張りすぎた女性。

社内の不倫相手とどうしても縁が切れない女性。

 

…などなど、実に多くの「逃げられない人たち」の具体的なケースが描かれる。

 

それは、延べ2万本(!)以上のカウンセリングの現場で、著者が出会ってきたクライアントの方たちの姿であり、そしてまた、本書を読んでいる私の鏡でもある。

 

彼ら、彼女らは、自らの心と身体の限界を超えてまで、頑張ってその場から逃げようとしない。

 

なぜ、そこまでして逃げられないのか?

 

物理的に、両手両足が鎖で縛られているわけではないのに、どうして逃げられない(と思い込んでいる)のだろうか?

 

本書は、その「逃げられない」理由について、心理的なアプローチから12のパターンについて説明がされている。

 

期待に応え続けようとする/思考的過ぎる/罪悪感/意地とプライド/我慢する癖/自分より相手を優先する/理想主義/犠牲/他人に嫌われたくない心理/正しさの罠と正義感/競争心/燃え尽き症候群

 

どれもこれも、聞いていて耳の痛い話ばかりではある。

 

けれど、その一つ一つの心理について説明を読んでいくたびに、私たちは何か物理的に拘束されて逃げられないのではなく、自らの内面の問題によって、自分を縛っているということに気づかされる。

 

本当は、もっともっと自由でいい。

 

 私たちはいつでも逃げられるし、やめてもいいし、負けてもいいのです。

 つまり、私たちは「自由」なのです。

 「逃げられないような気がする」とか「逃げてはいけない気がする」だけで、ほんとうはいつでも「逃げること」は可能なのです。しかもそれは、あなたの心の中で決断すればいいことです。

 

本書 p.214

  

3.「逃げる」とは技術である

 

ここまで「逃げること」について見てきたが、では具体的にどうしたら「逃げられる」ようになるのか?ということについても、本書は答えている。

 

すでにそのタイトルにある通り、「逃げること」とは「技術」であり、それは後天的に習得可能なものだ、と。

 

 そこでお気づきかもしれませんが、「逃げる技術」というのは、その名の通り「技術」、つまりスキルなのです。私はよくクライアントさんに「英語や料理と同じスキルなので、磨けば必ず上達するものなのです。」とお伝えしています。

 「逃げてもいい」という新しい価値観と出会った方は、はじめは強い抵抗を感じるでしょう。しかし、今の自分の状況や心理状態などを見て、まずは頭(思考)で「逃げてもいいのだ」ということを理解されるようになっていきます。

 

本書 p.64

 

「逃げる」ことは「技術」であり、磨くことができる。

 

そして、その磨き方を、本書は何通りにもわたって解説してくれている。

 

距離を取る/かわす/諦める、損切り、潮目を読む、引く/別れる/人に頼る/辞める/撤退する・退却する/選択する…などなど。

 

それらは、前項で述べた「逃げられない心理的な理由」に対する、処方箋でもある。

 

「逃げる技術を磨く」といえども、実のところ、やるべきことは「(逃げられないと思い込んでいる)自分の観念と向き合う」ことである。

 

それは、負けを認める、人に頼るなど、いままで「逃げずに頑張ってきた」生き方をしてきた人ほど、認めたくない生き方に見えるかもしれない。

 

けれども、大丈夫。

 

それは、「技術」なのだから。

 

必ず、後天的に身につくものだと本書は教えてくれる。

 

4.新しい価値観に触れ、自由に生きるために

 

「逃げる」とは、今いる場所を一度引いて俯瞰して眺めてみること。

 

新しい場所で新しい価値観に触れること。

 

そうやって大局を見たうえで、「自分はどうしたいのか」を冷静になって考え、感じてみること。

 

その自由は、いつだって私たちの手のなかにある。

 

それを一歩引いて見つめることこそが、「逃げる技術」を獲得することになり、その結果、あなたはより広い世界と出会い、今より多くの選択肢を持つことができます。

つまり、「逃げる技術」はあなたに「自由」を与えてくれる技術と言えるのです。

そのためには自分が良くも悪くも「井の中の蛙」であることを自覚する必要があるかもしれません。

 

本書 p.215

 

世界を広げ、自分が「井の中の蛙」であることを知ること。

 

そうしたとき、はじめて私たちは選択することができるようになる。

 

「大海」に繰り出していってもいいし、あえて「井の中の蛙」に戻って「空の青さを知る」ことをしてもいい。

 

いずれにしても、自由に生きられる、ということなのだろう。

 

そんな「逃げる技術」を、本書は教えてくれる。

 

その「逃げる技術」をテーマにしたセミナーが9/13(日)に東京/オンラインで開催されます↓

nemotohiroyuki.jp

 

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「哲学の道」の思い出に寄せて。

京都の名勝に、「哲学の道」がある。

 

戦前の日本哲学界の巨人、西田幾太郎氏が思索にふけりながら歩いたことから、その名が付けられたと聞く。

 

桜が咲き誇る春から、新緑、初夏、紅葉、そして雪の降り積もる冬と、四季折々の姿が美しい小径である。

 

私が訪れたのは、母と二人で京都を観光した際のことだっただろうか。

 

だとするなら、もう二十年以上も昔のことになる。

 

確か、冬の季節だったような気がするが、それはまた違う機会だったのだろうか。

 

写真も残っておらず、訪れた季節も曖昧なくらい、昔のことになってしまった。

 

なぜ、私と母の二人だったかの経緯も、覚えていない。

 

ただ、とても、静かな小径だったように覚えている。

 

 

 

 

とかく思考が過ぎると、人は下を向く。

 

「長考に沈む」とはよく言ったもので、頭で考えようとすればするほど、それに比例するように沈んでいく。

 

下を向くと、首が曲がり、呼吸は浅くなる。

 

口角は下がる。眉間に皺が寄る。

 

何かを探すようになる。

 

思考の対象が、それで見つかるようなものであればいいが、そうではないときもある。

 

考えても分からないとき、あるいは探しても見つからないときは、そういうときなのだ。

 

空を、風に揺れる木々を、咲く花を、見上げたときに、ふと、見つかることもあるかもしれない。

 

顔を上げる。

 

口角が上がり、笑顔になりやすくなる。

 

気道がまっすぐになり、深呼吸できるようになる。

 

ほら。

 

探してたものは、そこにあった。

 

最初から、そこに。

 

 

京都大学哲学科の祖ともいわれる、西田幾太郎氏。

 

ときに深く思索に沈むこともあったのかもしれない。

 

哲学の道」の風景を見上げることが、そんな西田氏を慰めたのだろうか。

 

二十年前のこと、まだインバウンド需要もなく、厳寒期であればなおさら静かな小径だったのかもしれない。

 

いまは、どうなのだろうか。

 

また、あの小径を訪れたくなった。

 

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哲学の道の写真がなかったので、同じ京都つながりで伏見稲荷大社の夕暮れ。

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大瀬良大地のキラキラカードと、バランスを崩すことについて。

多くの男の子が通る道なのだろうか、息子もまた「プロ野球チップス」の野球選手のカードを集め始めた。

 

カルビーさんが出している、ポテトチップスに野球選手のカードが付いているアレである。

 

娘は一向に興味を示さないあたり、やはり女性よりも男性の方が、何かを「集める」という傾向が強いのだろうか。

 

私自身、ストレングスファインダーの資質の上から3つ目に「収集心」があるものだから、息子と一緒になって楽しんでいる。

 

私も小さいころビックリマンシールから、ゲームのカードから、キン肉マンの消しゴムから、漫画から、散々いろんなものを集めたものだ。

 

私のころは50円くらいでカードが1枚付いていたような気がするが、いまは90円くらいでカードが2枚付いてくる。

 

スター選手のカードは、「キラキラ」な加工がしてあり、とても美しい。

 

その「キラキラ」を楽しみに、息子と収集に精を出している。

 

 

ある日、息子が「キラキラ」カードを引き当てた。

 

広島カープのエース、大瀬良大地選手のカードだ。

 

残念ながら先日、コンディション不良で登録を抹消されたが、押しも押されぬカープのエースである。

 

久しぶりに出た「キラキラ」のカードに喜ぶ息子。

 

そのカードを見た私は、ふと先日クワガタ捕りでお世話になった「クワガタ先生」(息子はそう呼んでいる)のことが頭をよぎった。

 

クワガタ先生もまた野球を嗜み、そして生粋のカープファンである。

 

3年前にカープが久々のリーグ優勝をした際には、本当に幸せそうだった。

 

クワガタ先生、大瀬良好きだったよなぁ…きっと、このカードをあげたら、とても喜ぶだろうなぁ…

 

そう思った私は、息子と交渉をする。

 

「なあなあ、そういえばクワガタ先生、カープファンだって。この前もお世話になったし、大瀬良の大ファンだから、あげてもいい?」

 

当然のように不満顔の息子。

 

「えー、そうなの…?」

 

「あぁ、きっと喜ぶと思う。代わりに、またチップス買うからさ?」

 

「んー、それならいいけど…でも、キラキラが出なかったら、どうする?」

 

「あぁ、出ないかもしれないな。それは買ってみないと分からない。だから、イヤならやめておこうか」

 

「んー、まあ、いいよ、べつに」

 

不思議と息子たちの世代というのは、私たちの世代に比べて、「所有」というものに対する執着が薄いような気がする。

 

その執着の薄さに救われたのだろうか。

 

 

こうして息子から大瀬良大地の「キラキラ」カードを預かった私だったが、どこかモヤモヤとした違和感が残った。

 

それが何なのか分からず、どうもそのクワガタ先生にそのことを切り出せずにいた。

 

生粋のカープファンのクワガタ先生は、もちろん喜んでくれるには違いない。

 

だけれども…

 

果たして、私は何日かその「キラキラ」の大瀬良大地のカードを、手帳に挟んだままにしていた。

 

そんな日が続いた、ある朝。

 

ふと。

 

やめておこう、と思った。

 

 

もうそのカードのことなど頭から抜けている息子に、私は向き合って話をした。

 

「このカード、ありがとう。でも、返すよ」

 

「ふーん、そうなの?」

 

「ああ。これは、きみが引き当てたカードなんだから、きみのカードだ」

 

きょとん、とする息子。

 

「当たり前だけど、それをどう扱うか決めるのは、おとうが決めることじゃなかった。だから、おとうが間違ってた。ごめんなさい」

 

息子は気にも留めず、ふーん、と返しただった。

 

そもそも、そんなカードがあったことすら、頭から抜けていたのかもしれない。

 

「もし、もう一枚同じカードが出たら、そのときはクワガタ先生にあげてもいいかな?」

 

「うん、いいよ!」

 

そう答えると、もう息子はYoutubeに夢中になっていた。

 

この数日間、何をしていたのだろうかと、自分自身に呆れながら、私はぼんやりしていた。

 

 

いつも、私はバランスを考える。

 

何がどうすれば、全体的な幸福度が高くなるのかを考える。

 

誰かがマイナス30で、誰かがプラス50ならば、全体の総和におけるプラスの量が増えるからいいのだ、というように。

 

時に、そのマイナスが自分であったり、身近な人であったりしても、その全体の総和としてのプラスを、厭わなかったように思う。

 

 

もちろん、そのおかげで全体のプラスが増えたことも、多々あったのかもしれない。

 

けれどそれは、心の傷や寂しさからくる犠牲的な行為であったかもしれない。

 

全体の、バランス。

 

最大多数の、最大幸福。

 

それを考えるものまた、長所であり才能の一つなのだろうけれども。

 

時に、それを崩すのも、必要なのかもしれない。

 

少なくとも、犠牲的な、補償的な行為でそれをするのは、結果的にマイナスが大きくなるのかもしれない。

 

あまり、全体を考えず。

 

時に、バランスを崩すように。

 

それでも、いいのかもしれない。

 

そんなことを考えながら、私は何かと用事を見つけて、息子とスーパーに「プロ野球チップス」を買いに行くのだろう。

 

大瀬良大地投手の「キラキラ」が、また出ることをほのかに祈りながら。

 

 

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その大瀬良大地のキラキラカード。美しい。

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記憶と感情の在りか。

記憶は、頭の中のどこか片隅にある。

 

感情は、心の中のどこかやわらかい場所にある。

 

本当に、そうだろうか。

 

時に、風に揺れる木の葉が記憶を預かっていても、不思議ではないような気もする。

 

時に、萎れた花弁に感情が宿っていても、それはそうだろうとも思う。

 

記憶、あるいは感情を、どうしたって個人的な領域でとらえてしまう。

 

この陰鬱な感じは、自分にしかないもので、あるいはこの切なくもほろ苦い記憶は、自分だけのものとして。

 

誰かの葉の痛みが理解できないように、自分のそれもまた分かりえぬものだ、と。

 

そうかもしれない。

 

けれど、そうでもないのかもしれない。

 

その胸の痛みは、いつか誰かが遺していった痛みなのかもしれない。

 

どこかで会ったような記憶を、風が運んできたのかもしれない。

 

いつか、だれかが、通った道。

 

いつか、だれかが、通る道。

 

その記憶、あるいは感情を、木や、風や、空や、あるいは一輪の花が、預かってくれているのだとしたら。

 

星の、記憶とでも呼ぶべきものだろうか。

 

もし、そうでなかったとしても。

 

いつか、どこかで会ったような気がする。

 

たぶん、どこかでその話をしたような気がする。

 

その痛みを、そして愛おしさを、ほんの、一瞬でも。

 

ほんの、刹那の間にも、共有できるような気がしたのだとしたら。

 

それは、字面通りの「有難い」ことなのではないか。

 

それが、喜びだったとして。

 

それを共感することを強いることも、押し付けることも、しなくてもいい。

 

ただ、純粋な自分の中の喜びとして、また風に預ければいいのだろう。

 

いつか、だれかが、また通るのだろうから。

 

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夕暮れも秋の色。 

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足元を見つめる、白露。

時候は「処暑」から、「白露」へ。

 

草木に降りた露が、白濁して涼しく見えるころ。

 

七十二侯でも、「草露白くさのつゆしろし」の時候。

 

日中と朝晩の寒暖差が、徐々に大きくなってくる。

 

ちょうど、夏から秋への端境期くらいなのだろうか。

 

季節は、めぐる。

 

そんな今日だが、秋の風情を感じるような気候でもなかった。

 

台風の影響もあり、朝から怒鳴るような降り方をしたと思えば、ぴたりと止んで晴れ間が見えたり。

 

かと思えば、滝のような豪雨がまた降り始めたり。

 

どこか不安定な面持ちの、今日の空。

 

 

雨の合間に、足元の草木を眺める。

 

緑の葉に、いくつかの雫が揺れていた。

 

ゆらゆらとしていたが、すぐ隣の雫と合わさって、つるつると葉の上を滑って行った。

 

朝露ではないけれど。

 

季節を、愛でる瞬間が持てたことを、喜ばしく思う。

 

こころは夏に留まりつつも。

 

日中の陽射しはまだまだ強くとも。

 

気付けば、夏が過ぎ行く。

 

秋が、訪れる。

 

どこか、寂しさとともに。

 

どこか、ほっとした感じとともに。

 

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朝露ではなく、雨の雫。

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