大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

子どもの自己肯定感を育む、「オウム返し」。

子どもとのコミュニケーションの中で、彼らの言うことをまず「オウム返し」することが、子どもの自己肯定感を育むのではないか、と最近つとに感じる。

 

そして、それは子どもに限らず、全てのコミュニケーションにおいてとても有効な方法論のように思う。

 

全て、というのは、自分自身との対話も含まれるのだが。

 

 

週末に、連日の甲子園に影響された息子と、公園でキャッチボールをしてきた。

 

折しもその日は高温注意報が出ており、外気温を見ると38℃。

 

さすがに公園で遊ぶ子どもの姿もまばらで、熱中症に注意してこまめに水分を補給しながらの運動になったが、さすがに1時間も炎天下にいると、頭がウニになってくる。

 

そのうち、思考回路は働かず、会話をするのも面倒になってきた。

 

捕りやすいように、下からふわっとボールを投げるも、なかなかうまくキャッチできない息子は、何回かのパスボールの後、キレ気味に、

 

「おとうの球がたかい!おとう、ヘタクソ!」

 

と抗議する。

 

普段なら、「いや、だから捕れるように練習してるんだろ?」とか「うるせー、そんなこと言うなら、もうやんねーぞ!」とか、まあギャーギャー言い合いになるのだが、この日は違った。

 

ぎらつく太陽の光とサウナのような気温に、どうにも頭が働かず、

 

「そうか、球が高いのか。おとうはヘタクソだな」

 

とオウム返しをするのが精いっぱいだった。

 

すると、不思議なことに息子は満ち足りた顔をして、

 

「もうちょっと、ひくくなげて」

 

と神妙に言ってくるではないか。私も、

 

「ああ、わかったよ。ごめんな」

 

と言って、黙々とボールを投げる時間が続いた。

 

うまくグローブにボールが入ったとき、息子は驚きとともに満面の笑みを浮かべた。 

 

キャッチボールをしながら、コミュニケーションの本質について、教えられた気がした。

 

気付けば、日が少し傾いていた。

 

 

子どもと接していると、ついつい「転ばぬ先の杖」を渡してしまいそうになる。

 

「あの子、あのままだと転んでしまいそう。転んだら、かわいそうだ」と。

 

そして、ついつい転ぶ前に手を差し出して、危険や失敗を回避してしまう。

 

もちろん、誰も我が子が転んだり、痛がったりすることを喜んで見たくはないだろし、道路に飛び出したり、あるいはストーブやコンロで火傷しそうになったり、命の危険を回避しようとするのは当たり前だ。

 

けれども「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ではないが、それも度を過ぎると、子どもの「生きる力」を奪ってしまう。

 

子どもの人生において、大切なのは「転ばないこと」ではなくて、「転んでも起き上がれること」であるはずだ。

 

何度転んでも大丈夫だし、

痛かったら助けを求めればいいし、

必ず助けてくれる人が周りにいる。

 

それを信じていなければ、「誰よりも早く走る方法」「疲れずに長距離を歩く方法」をどれだけ知っていたところで、地雷原に放り出されたような緊張状態でいつも過ごさなければなくなるのだろう。

 

そんな状態では、どんな方法論もライフハックもハウツーも、役に立たないではないか。

 

子どもとのコミュニケーションにおいて、私はなにかを「伝えよう」「教えよう」「正そう」としてしまいがちになる。

 

もちろんそれは、私の自分自身の経験から、子どもに対して自分の成功体験を伝えたり、あるいは私自身が経験したネガティブな経験をさせたくないための愛からの行動なのだが、度が過ぎると子どもの自己肯定感を下げてしまう。

 

「教える」「伝える」「正そう」とするコミュニケーションは、ときに

「いまのままのあなたでは、愛されないよ」

というニュアンスが伝わってしまうからだ。

 

なにがしかの方法論や、テクニックや技術は、他の誰からでも学べる。

ことによると、今の時代はスマホ1台を持たせておけば、それで十分かもしれない。

 

子どもの自尊心を育み、自己肯定感を高めるために、親ができることは何だろうと考えたときに、会話の中で「オウム返し」をすることは、とても有効なコミュニケーションなのかもしれない。

 

ああ、〇〇と思ったんだね。

〇〇なんだね。

そうか、〇〇だったのか。

 

その〇〇に対して、「いや、そうじゃないよ」「それは、じつはこれこれこういうことなんだよ」「それはいけないよ」と言いたくなるのを、一回肚の底に収めて、オウム返しをする。

 

不思議なことに、そうすると子どもは満ち足りたような表情をする。

 

さらに不思議なことに、その表情を見ていると、先ほどまで言いたかった「そうじゃねえよ」という言葉が、どこかへ霧散していくことが多い。

 

不思議なのだが。

  

 

結局のところ、子どもの自己肯定感は、親にどれだけ受容されているか、という一点に尽きる。

 

それによって、世界は安全なものなのか、それとも常に怯えていないといけない危険な世界なのか、子どもの観る世界は大きく変わる。

 

そして、親が我が子を受け入れることができるかどうか、というのは親が自分自身をどれだけ受け入れ、許し、愛せているか、に尽きる。

 

そのためには、自分の内なる心の声を、素直に「オウム返し」することが、結局巡り巡って子どものため、世界のためになるのかもしれない。

 

ああ、〇〇と思ったんだね。

〇〇なんだね。

そうか、〇〇だったのか。

 

その一つ一つの積み重ねが、自分を受け入れ、許し、愛することになる。

 

自分自身が、世界で一番自分に対して厳しい扱いをしてしまうのが、人という存在だから。

 

そうして自分で自分を満たしていった人から、子どもを、周りの他人を、そして世界を愛せるようになる。

 

大丈夫、世界は優しいから、と。

 

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38℃の中の運動で、思考回路がショートした図。 

それにしても、暑かった。

 

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〇大嵜直人の書斎:2019/8/25

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2周年。

ここでブログを書き始めて、丸2年が経ちました。

 

おかげさまで、毎日更新を絶やすことなく今日まで来れました。

 

この記事で、755個目のエントリーになるそうです。

 

だいたい平均で2,000字前後を書いてきましたので、計算してみると151万字ほど書いてきたでしょうか。

 

積み上げというのは、ほんとうに裏切らないものだと実感します。

 

 

書くことは、不思議です。

 

アウトプットであり、内省であり、冒険であり、自己表現であり、癒しであり、自己探求であり…それは飽きることのない遊びのようです。

 

書くことを考え、キーボードに向かう時間は、私の大切な時間になりました。

 

今日はなんか疲れたし、面倒だなぁ…と思うことがあっても、キーボードに向かい、内省することが日課になりました。

 

必ず毎日書くとなると、一日一日が意味を持ち、そして彩られていくようでした。

 

書き続けたことで、今日の私があります。

 

 

書くことは、不思議です。

 

不思議なことに、日々書いていく中で、たくさんの感想を頂きました。

 

頂いた感想やコメントの一つ一つが、今日この場所までわたしを運んでくれました。

 

ありがとうございます。

 

これからも、書き続けていこうと思います。

 

どうか、これからもよろしくお願いいたします。

 

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〇大嵜直人の書斎:2019/8/24

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「自己価値」とは、ただ気づくもの。

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

昨日に続いて、「自己価値」について。

 

「何かができる」から自分には「価値がある」という観念を手放せたとき、世界はやさしくなる。

 

「自己価値」とは、認めるものでも、増やすものでも、高めるものでもなく。

 

ただ、気付くだけのもの。

 

 

私たちが何かに対して「価値がある」というとき、具体的に何に価値を見いだしているのだろう。

 

あのアーティストのライブは価値があった

この型式のBMWはすごく価値がある

あの名店は遠いけれど食べに行くだけの価値がある

このピカソの絵には1億円の価値がある

あのサービスはこれからの社会においてすごく価値がある

 

…などなど、人によって「価値がある」と感じる対象は、それぞれだろう。

 

その共通点があるとしたら、何だろう。

 

交換可能な「お金」なのだろうか。

それとも、それをすることで得られる「経験」だろうか。

あるいは、それに対する世間の「評判」だろうか。

いやいや、何がしかの役に立つという「有用性」だろうか。

 

そのどれもが、正しいのだろうけれど、どれも肌感覚としてしっくりこないのは、私だけだろうか。

 

いったい、人が価値を感じる源泉とは、何だろうか。

 

 

産まれたばかりの赤子は、何もできないし、養育するのにお金はかかるし、まして誰かから能力を評価されているわけでもない。

 

だから赤子は「価値がない」のだろうか。

 

そんなわけはなく、赤子はそこにいるだけで周りを笑顔にする。

 

だから赤子には、「価値がある」。

 

それは一つの真実だけれども、こと「価値」という視点からすると、少しの違和感を覚える。

 

「周りを笑顔にする」から「価値がある」というニュアンスが含まれているようにも聞こえるからだ。

 

揚げ足を取るような話かもしれないが、その逆に「周りを笑顔にできない」「周りを怒らせてしまう」「周りの雰囲気を暗くしてしまう」のが私だとしたら、私には「価値がない」のだろうか。

 

この手の話には、何かが「できる」から、誰かの「役に立つ」から、誰かの「評価」があるから、「自己価値」を認めることができる、という根源的な観念が見え隠れする。

 

この「できる」「役に立つ」「他者評価」から「自己価値」を認めることほど、辛く苦しい蟻地獄もない。

 

それらは、自分にはコントロールできない範疇だからだ。

 

私が100mを9秒で走れないように、どれだけ頑張ってもできないことはあるだろうし、

役に立つかどうかなんて、私には決められないし、

まして他者評価なんてコントロールのできない最たるものだ。

 

原因と結果の因果律にとらわれるほど、人は不自由になる。

 

 

何かができるから、役に立つから、他者評価が高いから、「自己価値」を認めるのは簡単だ。

 

けれど、それは砂上の楼閣よろしく、簡単に崩れる。

 

私よりできる人が現れたり、役に立たないときが来たり、誰にも評価されない時期が訪れるのは、私にはコントロールできない。

 

けれど、私やあなたの「価値」というものは、何かができるとか、役に立つとか、他者評価があるとか、そんなチャチな物差しで測れるものなのだろうか。

 

決してそうではないように思う。

 

 

鍵になるのは、自分の奥底にへばりついた、消せない闇だ。

 

ほんとうのところ、私たちが心の深淵で求めているのは、

テストで100点を取った、

明るく元気で笑顔いっぱいの、

いつもやさしくて家族や友達に囲まれている、

そんな私の「価値」ではなくて。

 

何もできないクズみたいに感じる、

どこまでもネガティブで根暗でちっぽけな、

家族を見捨てて友達を裏切る薄汚れて罪深い、

そんな私の「価値」なのかもしれない。

 

誰しもが、他人には見せられない、自分の奥底に押し込んだ闇にこそ「価値」を見てほしがっている。

 

どんなクズみたいな自分でも、無限の「価値」がある。

どんなネガティブな自分も、光に包まれるだけの「価値」を持っている。

どんな罪深い私も、何度でも救われる「価値」がある。

 

その「価値」を信じるのは、それを否定されることよりも、よっぽど怖い。

 

不幸よりも、幸せを受け取ることの方が、怖いものだから。

 

だから、「価値を信じること」を信じられるように、祈ろう。

 

何度も、何度でも。

 

その果てのない祈りの先に。

 

「自己価値」とは、

増えもしなければ、減りもしない、

奪われもしなければ、盗まれもしない、

高まりもしなければ、低くもならない、

時が経とうが、風が吹こうが、何も変わらない、

多いも少ないもなく、ただ完全なもの。

認めようが、認めまいが、ただそこに在るもの。

 

という真実に気づく。

 

「自己価値」とは、ただそこに在ることに、気付くだけのもの。

 

それに気づいていないのは、自分自身だけ。

 

「自己価値」とは、ただ気づくだけのもの。

 

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どんなに分厚い雲の上にも、青空が広がっているように、あなたの「価値」は何があっても変わらない。

 

その雲でさえも、青空という音を彩るビブラートのようなゆらぎでしかない。

 

何があっても、青空がなくならないように、

あなたの「価値」もまた、なくならない。

 

ただ、それに気づくだけ。

 

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〇大嵜直人の書斎:2019/8/23

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「自己価値」は成功体験によって磨かれるが、そもそも成功か失敗かを決めるのは「自己肯定感」である。

「自己価値」と「自己肯定感」について。

 

どちらも自分という唯一無二の存在を生きるために大切な要素であるが、その関係は「車の両輪」というよりも、「根っこと花」の関係のようである。

 

すなわち、「自己価値」のベースになるのが「自己肯定感」である。

 

すべては、自分を愛することから始まる。

 

 

「自己価値」とは、自分に何らかの価値があることを認めること。自己評価。

 

「自己肯定感」とは、どんな自分でも受け容れ、許し、愛すること。自己愛。

 

それらは似ているようで、異なる。

 

それぞれが磨かれるタイミングを考えると、よくわかる。

 

「自己価値」とは、自分に価値があると自分が認めること。

 

それが磨かれるのは、成功体験に依るところが大きい。

 

・ピアノのコンクールで、いままで練習した成果を発揮して金賞を受賞することができた。

・受験勉強を頑張って、第一志望の学校に受かることができた。

・担当していた客先から、見事に大口の仕事を受注することができた。

 

…などなど、こうした成功体験は、著しく「自己価値」を上げる。

 

私は有能であり、私はデキる人であり、私は優秀である、だから価値があるんだ、と。

 

これと反対に、「自己肯定感」と呼ばれるものは、おもに失敗したと感じる経験をした際に磨かれる。

 

・大好きだった恋人に、こっぴどく振られてしまった。

・三年間頑張ってサッカー部の練習に励んだのに、結局公式戦に一度も出場できなかった。

・発注をミスって、返品不可の商品の在庫が山のように積まれてしまった。

 

…どうも例が妙にリアリティがある話のような気がするが、気のせいなのだろう。

 

それはさておき、こうした失敗体験、痛い体験といったものは、「自己肯定感」をゴシゴシと磨いてくれる研磨剤のようなものだ。

 

どんなに失敗して、どんなにひどく傷ついて、どんなにダメだろうが、そんな自分を愛することを学ばざるをえないからだ。

 

 

子どもと接していると、それがよく分かる。

 

子どもの「自己肯定感」を育てるのは、決して彼らが何かできたり、成し遂げたり、成功したときではない。

 

その逆で、子どもが失敗したり、できなかったり、ダメなことをしたときに、親がどういう対応をするかで育つ。

 

テーブルの上のミルクを派手にこぼしてしまったり、

周りの子に比べて、走るのが遅かったり、

ブロックがうまく積めなくて癇癪を起こしたり…

 

そんな子どもに対して、

 

どんなあなたでも、愛してるよ。

生まれてきてくれて、ありがとう。

 

と無条件の愛を伝えることが、子どもの「自己肯定感」を育む。

 

子どもにとっては、親=世界なので、親からの受容とはすなわち世界からの肯定であり、親からの拒絶は世界からの拒絶であるから。

 

もちろん、日々子どもと接していると、時にそれが難しいことは多々ある。

 

子どもが見せてくれる、その「ダメなところ」「腹立たしいところ」「心配になるところ」は、親が自分自身の中で受け入れていない闇の部分だからだ。

 

それでも、ベースとして持っている愛は、必ず伝わるのだろう。

 

「どんな私でも愛されている、大丈夫」

 

その安心感は、すなわち「自己肯定感」となり、それを土台にして自分の足で大地を踏みしめて歩いていく。

 

 

さて、その上で「自己価値」の話に戻ると、それを育むのは成功体験だと先ほど書いた。

 

では、その経験が「成功なのか、失敗なのか」を決めるのは、何なのだろうか。

 

冒頭に書いた通り、それは「自己肯定感」なのだと思う。

 

自分を深く愛し、自分を受け入れ、許すことができたとするなら、そんな自分に起こることもまた、愛せるようになるのではないだろうか。

 

・パートナーにこっぴどく振られたのは、自分がこれまで与えてきた愛の深さに気づくことができるタイミングなのかもしれない。

・練習しても試合に出れなかった悔しさや悲しさを知ることは、ほんとうに意味での強さにつながるのかもしれない。

・とんでもない在庫を売りさばくために、いろんな方法に挑戦できるチャンスなのかもしれない。

 

目の前で起こっていることは全てニュートラルであり、それに意味づけをするのは、自分でしかない。

 

成功も、失敗も同じ事象の違う呼び名に過ぎない。

 

「自己肯定感」が高いと、ほんの些細なことで自分を褒め、ねぎらい、そして愛することができる。

 

時間通りに会社に身体を運んで、私ってえらいな、

今日もベッドで目を覚ますことができて、気持ちよかったな。

こんな綺麗な空が見られて、幸せだな。

周りに気を遣って、僕はやさしいな。

 

ほんの小さなことが、成功体験になり、「自己価値」を上げていく。

 

それは、金利における複利計算のように、雪だるま式に、どんどんと大きくなる。

 

けれど、複利で大切なのは、言うまでもなく元本(=つまりはベースとなる「自己肯定感」)の大きさだ。

 

 

「自己価値」は「自己肯定感」をベースにしている。

 

結局のところ、どこまでいっても自分が自分自身を受け入れること、許すこと、愛すること、それに尽きる。

 

どんな自分も、愛することから始めようか。

 

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〇大嵜直人の書斎:2019/8/22

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好きなことをして生きていく。

好きなことをして生きていく。

 

その生き方は、「好きなことのためなら、嫌なことでも何でもする」という、好きなものを持つことによるエネルギーによって支えられるものなのかもしれない。

 

 

かつて、とあるバクチ打ちの生涯を描いた漫画の中で、主人公が師匠に麻雀のイカサマのために、サイコロの出したい目を出す練習を行きつけのバーしている場面があった。

 

出したい目を下にして持ち、1回転半転がす。

 

ただそれだけなのだが、師匠は「訓練次第で誰にでもできることさ」と言う。

 

(ちなみに私もそれに憧れて練習したが、全くできるようにならなかった。もっとも、私が学生の当時から、すでにどこの雀荘に行ってもほぼ全自動卓が設置してあり、自分でサイコロを触ることなどなかったのだが)

 

主人公と師匠の、その練習を見ていたバーのママが不思議そうにこう言う。

 

博奕打ちってのは楽して大金を稼ごうって人種だろ

でも そのわりにはやけに勤勉じゃない

 

それを聞いた師匠が、笑いながらこう返す。

 

怠惰を求めて勤勉に行き着くか…

カカカ…それもそうだ

 

「怠惰を求めて勤勉に行き着く」。

 

この漫画を読んでいた学生時代から年を重ねるごとに、この師匠の言葉が含蓄を増すように思う。

 

好きなことを求めて、嫌いなことでも何でもやるように行き着く。

 

そんな構造と、似ているのかもしれない。

 

 

学生時代の思い出ついでに。

 

当時、私の博打打ちの仲間に、一学年上の先輩がいた。

 

理工系の学部だったその先輩を、仮に「モリトさん」と呼ぶ。

 

モリトさんは、博打の才能があった。

 

麻雀では波に乗ったときの爆発力と、そうでないときの押し引きのタイミングが絶妙で、いいようにやられた記憶しかない。

 

モリトさんは、麻雀以外の博打も強かった。

 

中でもスロット稼業に精を出し、月7桁をいつも稼いでいた。

 

学生の身分でそんな大金を持っていて、羽振りがよかったかというと、まったく正反対だった。

 

たまに何かのお祝いや、自分へのご褒美に、ラーメンにチャーシューを追加する「ぜいたく」を楽しむような人で、まったく博打でスレた感じはなかった。

 

そのモリトさんも、やがて研究室に入る年になり、スロット稼業から足を洗った。

 

付き合いで麻雀は打つが、それも研究に時間が取られ、なかなか顔を出せなくなったようだった。

 

疎遠になった後、久しぶりの酒の席で、モリトさんに笑いながら聞いてみたことがあった。

 

「モリトさん、別に7桁稼げるなら、パチプロでいいじゃないっすか。なんでやめちゃうんですか」

 

「いや、そうじゃないんだ。7桁勝つために、生活の中のかなりの時間を捧げてたから…これ以上はスロットでは無理だと分かった。別の方法で、8桁稼げる方法を探すんだよ」

 

モリトさんは、勤勉だった。

 

聞けば、毎日毎日、雨の日も風の日も、朝昼晩とパチンコ店に足繁く通って、全台のデータを取ってエクセルで管理して、その店の常連客などとネットワークを構築して情報収集して、当時普及し始めたネットを駆使し、雑誌にすべて目を通して…それを、365日続けていた。

 

モリトさんの常勝を支えていたのは、狂気じみた勤勉さだった。

 

おそらく、スロットを打つ時も、娯楽というよりも仕事や作業に近い感覚だったのだろうと思った。

 

そんなにお金稼いで、どうするんですか、と聞いたこともあった。

 

「やりたいことが、あるんだ」

 

そう言って、笑っていた。

 

狂気じみた執念のような、モリトさんの勤勉さを支える「やりたいこと」とは何のか。

 

それは、簡単に聞いてはいけないような気がして、私は「そうなんですか」と返すのが精いっぱいだったように覚えている。

 

 

「好きなことをして、生きていこう」

 

耳障りのいい言葉だ。

 

けれど、その言葉の生き方を支えるのは、ただ「嫌なことをしたくない」というマインドではなくて、「好きなことをするためには、嫌なことでも何でもやる」という強固な決意なのかもしれない。

 

逆言えば、「好きなこと」をするためなら、「嫌なこと」が「嫌なことでなくなる」のだろう。

 

すべての時間は、その「好きなこと」に捧げるためにある、と考えられたら、「嫌なこと」もなくなるのではないか。

 

 

もしも、いつかモリトさんと会うことがあったら。

 

今度は胸を張って、モリトさんの言っていた「やりたいこと」を聞いてみたいと思う。

 

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〇大嵜直人の書斎:2019/8/20

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いったいアタシは、次はいつチルできるんですか。と彼女は言った。

「暑いけど、なんか夕方は暑さの勢いがなくなってきたな。そりゃお盆も終われば、もう秋か」

 

「終わっちゃった」

 

「は?」

 

「もう、終わっちゃった」

 

「何が?」

 

「決まってるじゃないですか、お盆休みですよ」

 

「ああ、そうだな」

 

「なんでこんなに短いんですかね。小学生だって40日くらいあるじゃないですか。それなのに、大人はこんなに短いなんて、おかしいですよ」

 

「言ってることがよくわからんが、なんか前も同じようなこと言ってたな…いいじゃないか、また通常運転ってことで、次の休みを楽しみに働けば」

 

「イヤです、今日は絶対に仕事しない、いや、してやらない」

 

「イヤ、それは困る…まあけど、休み明け初日だからな…ゆっくりギア上げていけばいいよ。たしかにスポーツとかでも、休み明けから急に飛ばすと、怪我したりするしな」

 

「そういう問題じゃないです」

 

「なんだ、その理不尽大魔王は…せっかく共感して、同調してるのに…じゃあ、どういう問題なんだよ」

 

「いったいアタシは、次はいつチルできるんですか」

 

「チル?なんだそれは?」

 

「もう、人に聞く前にググってください!自分で調べられるのに、人の時間を奪わないでほしいです!」

 

「なんかよく分からんが、ことのほか機嫌がわるいな…」

 

「そんなことないです」

 

「なんだその、酔っ払いの『酔ってませんよ』的な説得力のなさは…まあ、どちらでもいいや。でもさ、やっぱりなくなったりするもの、消えたりするものこそが、価値があると思うんだけど、どうだろうか」

 

「なんですか?ソレ。暇つぶしに聞いてあげます」

 

「お、おう、ありがとう。この前、若い子たち話しててさ、スマホで何をするかって話になってさ。やっぱりスマホSNSネイティブの世代は、おっさんとは全然違うわけだよ」

 

「まあ、それはそうでしょうね。二十歳を過ぎてからスマホを触った世代と、物心ついたときにはもう触っていた世代とでは、違うでしょうね。親がそれを触ったことがあるかどうか?っていうのも、また大きな違いでしょうし」

 

「ああ、そうだよな。いまのスマホネイティブの世代が親になると、また違うんだろうな…まあ、それはいいとして、その若い子たちって、皆インスタの『ストーリー』に慣れちゃってるから、『消えるコンテンツ』に対する優先度が高いんだよね」

 

「あー、アタシもまずストーリー見ますね」

 

「そうなのか。で、思うのは『消えるコンテンツ』はやっぱり優先度が高い。やっぱり天才だよ、ストーリーを考えた人たちは。『消えるコンテンツ』があればこそ、何度もログインしないといけない。そうじゃなくて『消えないコンテンツ』だけなら、後でまとめて見ればいいか、ってなって、ログインの頻度が落ちていくんだろうな」

 

「そんなこと、考えたこともなかったです」

 

「いや、ビジネスでもそうだけど、『期間限定』に弱いよね、人間。セールやクリアランスってのもそうだろうし、早割とかも同じだよね」

 

「ふーん、そうなんですか。アタシはあんまりクリアランスとか行かないですけどね。人混みがキライなんで」

 

「でもストーリーは見る」

 

「うん」

 

「逆説的だけど、一つの人間心理だよね。いつでも見られるものは、希少でもなければ、貴重でもないし、優先度も高くない。今見ないと消えてしまう!来週までに行かないと終わってしまう!ってものは、当然優先順位が高くなる」

 

「へえ、なるほど…で、それがお休みと何の関係があるんですか?」

 

「だから、無くなるからこそ、休みってのは貴重だし、優先順位が高いんだよ」

 

「そんなこと、どうでもいいです!…んん?出勤日も過ぎればなくなるのに、別に優先順位なんて全く高くないじゃないですか?」

 

「ああ、言われてみればそうだな…うまいこと言ったと思ったんだが」

 

「もう、うっかりダマされるとこだった!…でも、グダグダ話してたら何となくチルできたから、そろそろお昼行ってきます」 

 

「あぁ、行ってらっしゃい…それにしても、どういう意味なんだ、チルって…」

 

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〇大嵜直人の書斎:2019/8/20

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札幌記念の思い出に寄せて、ウマフリさんに寄稿させて頂きました。

短い札幌の夏を彩る、札幌記念

 

平成9年のあの牝馬の思い出に寄せて、競馬ブログ&WEBフリーペーパー「ウマフリ」さまに寄稿させて頂きました。

 

平成という時代は、女性が強くなった時代とも、また草食系男子という言葉に見られるように、男性が弱くなったとも言われることがあります。

 

サラブレッドの世界でもそれは同じで、牡馬との混合レースをいくつも制するような牝馬が現れたのが、平成という時代でした。

 

牝馬が強くなったのか、牡馬が弱くなったのか。

 

牝馬が活躍する端緒となった、平成9年の札幌記念エアグルーヴの走りを観ていると、そのどちらでもないように思います。

 

ただ、牝馬が美しくなったのかもしれない、と。

 

www.uma-furi.com

あのエアグルーヴが勝った平成9年の札幌の夏もまた、短く儚くも、また美しいものだったのでしょうか。

 

そんな情感とともに、お楽しみ頂ければ幸いです。

 

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〇大嵜直人の書斎:2019/8/19

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