大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

何も起きていない。

痛み、というものは意識を「いまこの瞬間」に強烈に引き戻してくれる。

 

それはある意味で与えられたギフトなのだが、実のところ、痛みを感じる瞬間というのは、大丈夫なのだ。

 

その瞬間は、何も起きていない。

 

ただ、在る、ということを知るだけだ。

 

 

久しぶりにベッドの足に、自分の足の小指を思い切りぶつけた。

 

文字通り悶絶しながら、小指を抑える。

 

これが派手に真っ赤になったり、パンパンに腫れたり、分かりやすいビジュアルの変化があるならば、思い切り騒げるのだが。

 

テクノロジーの進化だなんだと言いながら、人類がこの痛みから解放されるときはあるのだろうか、などとどうでもいいことを考えながら、うずくまる。

 

その瞬間、この世界には痛みしかないように感じる。

 

その刹那ごとに、怒涛のように寄せては引いていく痛みを堪えて、私は呻き声をあげる。

 

「痛み」というのは、最も手っ取り早く「いま」を感じることができるシステムなのかもしれない。

 

そして、「いま」を感じることは、最も偉大なる癒しでもある。

 

 

それは、身体的な痛みのことだけだろうか?

 

そうではないだろうと思う。

 

失恋をする、病を患う、我が子が怪我をする、いじめに遭う、あるいは大切な人と別れる…

 

そうした痛みは、それまでどこかぼんやりとしていた世界を、大きく変える。

 

痛みと絶望と諦めと恨みつらみの海の底で、ただあるがままの世界に触れる瞬間に出逢う。

 

それを感じる自分自身が、世界に溶けていく。

 

ひとつ大きく息を吸い、胸のふくらみを感じて、ゆっくりと息を吐く。

 

いま、この瞬間は、大丈夫なのだ。

 

心が痛んでいるときに、たとえば将来が怖くて考えられないときや、過去が思い出すのもつらいとき、私は現在に注意を払うことを学んだ。私が今いるこの瞬間は、つねに、私にとって唯一、安全な場所だった。その瞬間瞬間は、かならず耐えられた。今、この瞬間は、大丈夫なのだ。私は息を吸い、吐いている。そのことを悟った私は。それぞれの瞬間に美がないことはありえないと気づくようになった。

 

母が亡くなった晩、電話をもらった私は、セーターを持って家の後ろの丘を登っていた。雪のように白い大きな月が、椰子の木ごしに昇っていた。その晩遅く、月は庭の上に浮かび、サボテンを銀色に洗っていた。母の死を振り返ると、あの雪のように白い月を思い出す。

 

「ずっとやりたかったことをやりなさい」ジュリア・キャメロン著(サンマーク出版、原題:The Artist's Way)より

 

布団の中にいても、仕事場にいても、電車の中にいても、車の中にいても、お風呂の中にいても、いつでもそこに「ある」。

 

ただ、そこにあるだけ。

 

それは、どこへも行かない。

 

何も起きていない。

 

そこでは、何も起きていない。

 

ただただ、揺蕩い、凪いで、安らいでいる。

 

 

痛みの真っ最中にいるとき、ふとそうした「何も起きていない」自分を見つけることがある。

 

ぶつけた小指に悶絶しながら、のたうち回りそうになりながら、それでもそんな自分を「演技している俳優を見る」ように見つめる自分が、確かに、いる。

 

絶望的な想いに胸が張り裂けそうになりながら、肚の底で蠢く激情の渦に呑まれそうになりながら、それでもそんな自分を「どこか滑稽に」見つめる自分が、いる。

 

なぜなら、何も起きていないから。

 

その瞬間は、息を吸い、息を吐いている。

 

わたしは、生きている。

 

わたしは、大丈夫。

 

 

何も起きていない。

 

ただ、あるがまま。

 

そこに意味もなにもなく、価値もなく、正誤善悪優劣聖俗もなく。

 

それでも、ただ、在る。

 

それは、自分という存在への、根源的な肯定であり、安心感とでも呼ぶものなのかもしれないし、あるいは愛と呼ぶのか、正覚と呼ぶのか、何でもいいのだろう。

 

いま、この瞬間は何も起きていない。

 

いまこの瞬間だけは、大丈夫なのだ。

 

f:id:kappou_oosaki:20200122212835j:plain

 

________________________

〇お問い合わせ先

執筆についてのご依頼・お問い合わせはこちらから。

Instagramnaoto_oosaki/Facebok:naoto.oosaki.5

Twitter@naoto_oosaki/LetterPot:users/13409 

________________________

〇今日の書斎:2020/1/22

1.寄稿記事:「王道と覇道(仮)」⇒執筆中!

2.ものがたり 構想中

________________________

〇大嵜直人の作品一覧はこちら

【大嵜直人の執筆記録】

________________________

お好み焼き慕情。

記憶というものは、感情と密接に結びついていることが多い。

 

そして感情というものは、何がしかの食べもの、音楽、風景、街…そういったものと結びついている。

 

ふとした瞬間に、忘れていたような記憶がよみがえることがある。

 

それは、忘れていたのだろうか。

 

どこかに仕舞っていた古びた宝箱が、何かを鍵にして開くように。

 

歳を重ねるということは、そうしたアルバムのような感情を、重ねていくことなのかもしれない。

 

笑っている顔や怒っている顔、そして悲しそうにしている顔。

 

セピア色になってしまえば、どれも切なく、また愛おしい。

 

 

久しぶりに外で食べるお好み焼きは、どこか懐かしい感じがした。

 

厨房で焼いて出てくる形式のそれは、失敗しない安心感の分、何もない鉄板を前にする時間が長くなる。

 

外でお好み焼きを始めて食べたのは、いつだっただろう。

 

中学生くらいの頃だったか。

 

ネットもまだなかった時代、地方の田舎の中学生の遊びといえば、限られてくる。

 

外食というのは、その中の数少ない娯楽の一つだった。

 

少し遠くの、それでも自転車で行ける距離にあった、おばちゃんが一人でやっているお好み焼き屋。

 

同級生の友人たちだけで食べたお好み焼きは、家で食べるそれとはまったく違った気がした。

 

 

大人たちがしている「飲み会」とやらが、羨ましくて。

 

大人になりきれない私たちは、そのお好み焼き屋での会合を「飲み会」と称して、密やかな悪事のように心をときめかせていた。

 

話を聞きつけた、普段はあまり話さないクラスメイトも集まって、結構な大人数が集まったような気がする。

 

あのおばちゃんのお店は、自分たちで焼くスタイルのお店だった。

 

いまとなっては、どうでもいいような話に騒ぎ、上手く焼けるかどうかに一喜一憂した。

 

コーラとジンジャエールの泡を、ビールに見立てて乾杯した。

 

偶然にも私たちの他に客はおらず、気兼ねなく騒いでいたように覚えている。

 

 

誰かに、好かれたくて。

 

カッコをつけたくて。

 

何かに、なりたくて。

 

特別な何かを持つ、誰かになりたくて。

 

どこか必死で、それでも、どこか斜に構えて。

 

どうにもならぬ、鬱屈とした想いを抱えて。

 

 

やがて、それぞれがそれぞれの世界を持ち始め。

 

そんな「飲み会」も回を重ねることもなく、泡のように消えて行ってしまった。

 

あのおばちゃんのお好み焼き屋にも、わざわざ足を運ぶこともなくなっていった。

 

歳を重ねるごとに、電車に乗れるようになり、行動範囲は広がり、いろんな遊びを覚えていったけれど。

 

あのお好み焼き屋の、秘密基地のようなワクワク感は、セピア色の戻らぬ思い出として、あの頃の瑞々しさと、成長痛のような痛みとともに、どこかへ仕舞ってしまったようだ。

 

 

ようやく、オーダーしたお好み焼きがきた。

 

美しいフォルムのそれは、自分で焼いたあのお好み焼きとは似つかないけれど。

 

それでも、多めに入った葱が、そのセピア色を思い出させるようだった。

 

ヘラを握り、ラフに切り分けながら、私はその嗅いだ。

 

その甘いソースと青海苔の香りは、どこかセピア色のような気がした。

 

f:id:kappou_oosaki:20200121205524j:plain

 

________________________

〇お問い合わせ先

執筆についてのご依頼・お問い合わせはこちらから。

Instagramnaoto_oosaki/Facebok:naoto.oosaki.5

Twitter@naoto_oosaki/LetterPot:users/13409 

________________________

〇今日の書斎:2020/1/21

1.寄稿記事:「王道と覇道(仮)」 構想中

2.ものがたり 構想中

________________________

〇大嵜直人の作品一覧はこちら

【大嵜直人の執筆記録】

________________________

大寒。世界を隔てるもの。

今日は「大寒」、一年で最も寒さが厳しい時候。

 

例年のこの時期の朝は、極寒の中で車のフロントガラスの氷を溶かすという苦行に勤しむのだが、今年はまだ1回しか、その苦行をしていない。

 

底冷えする寒さを感じる前に、冬が終わってしまいそうだ。

 

 

とはいえ。

 

寒さ、というのは、あまりにもそれが過ぎると痛みになる。

 

それを知っているから、みな寒風には首をすくめ、身を固くする。

 

いつしかそれは、世界と自分を隔てる薄い膜となり、いつしか皮となり、そして身を護る硬い鎧となる。

 

その膜を、皮を、鎧を、何重にも着重ねて。

 

痛みを感じないように、厄災から身を隠すように、信じたくない現実を見ないで済むように。

 

凍える大寒の冷気から、やわらかな新芽を護るために。

 

そのために着重ねた、鎧。

 

それを、思い込みや信念、ブロックと呼ぶこともできるし、

 

 

と呼ぶこともできよう。

 

いつしか、その鎧は、誰がつくったのか、何のためにつくったのか、忘れ去られる。

 

ただ、それがあることの方が自然なように。

 

それでも、大寒を過ぎれば春立てる日がやってくるように、季節はめぐる。

 

いつしか、世界は暖かく、そしてやさしい場所に変わる。

 

そう、もう鎧を着ていては、汗ばむ陽気だ。

 

風はやさしく、陽の光はやわらかで、空にはぼんやりと霞がかかる。

 

その空へと、鎧を返すときが来る。

 

 

いままで、わたしを守ってくれて、ありがとう。

 

あなたのおかげで、わたしはずっと守られてきました。

 

でも、もう大丈夫。

 

自分で歩いて行ける。

 

大丈夫、世界はやさしくて、

 

そして、美しいから。

 

今まで、ありがとう。

 

 

大寒を過ぎると、すぐに春立てる日へ。

 

世界は、またやさしくなる。

 

またいつか、寒さが戻ってきて、膜を、皮を、鎧をつくっても。

 

もう、大丈夫。

 

季節はめぐり、世界はまた美しくなるから。 

 

f:id:kappou_oosaki:20200120182216j:plain

硬く厚い鎧に守られている新芽。その硬さは、どこか健気で。

 

________________________

〇お問い合わせ先

執筆についてのご依頼・お問い合わせはこちらから。

Instagramnaoto_oosaki/Facebok:naoto.oosaki.5

Twitter@naoto_oosaki/LetterPot:users/13409 

________________________

〇今日の書斎:2020/1/20

1.寄稿記事:「王道と覇道(仮)」 構想中

2.ものがたり 構想中

________________________

〇大嵜直人の作品一覧はこちら

【大嵜直人の執筆記録】

________________________

意味という病。

息子が何度目かの、休日の約束をしてきたと言う。

 

近所に住む友だちと、日曜日の午後1時に川の橋のところで会う約束をした、と。

 

間に合うように早めに昼食を摂らせ、待ちきれない息子に急かされて、家を出る。

 

交通量の多い大通りを渡った公園に行くまで、ついてきて、と言う。

 

切手がなかった私は、その足でコンビニによって帰ろうと思っていた。

 

 

約束の1時よりも少し前に、橋の上に着く。

 

友だちの姿は、なかった。

 

しばらくその辺りの道をウロウロとしながら、そわそわと息子は待っていた。

 

果たして、約束の1時を5分過ぎ、10分過ぎても、友だちは現れなかった。

 

目に見えて肩を落とす息子。

 

前回の約束が2時だったから、もしかしたら2時と間違えているのかもしれない。

 

息子とともに、2時という錯誤に一縷の望みを託して、一度家に帰ることにした。

 

 

果たして、2時にまた橋の上を訪れても、彼は現れなかった。

 

息子は、橋の近くの彼のマンションまで行ってみると言い、未練を込めてペダルを漕ぐ。

 

807のはずなんだけどなぁ

 

集合住宅を見上げながら、息子はつぶやく。

 

大きな声で、呼んでみたら?聞こえるかもよ?

 

息子は大きな声で、彼の名前を叫んだ。

 

冬の空に、その名がこだまして、そして静寂が戻ってきた。

 

待ち人、来ず。

 

 

あいつ、げつようびにあったら、100まんかいごめんっていわないと、ゆるさない。

 

知りうる限りの恨み節を並べていく息子と、肩を落とす帰り道。

 

その怒りの矛先が、私に向くのも容易に想像はついた。

 

思い通りにいかない怒りのエネルギーを、あらん限りの力でぶつけてくる息子。

 

待ち人、来ず。

 

約束は、破られる。

 

遠い昔の記憶を、どこか思い出す。

 

破られた約束に傷ついたのは、いつごろだったのだろう。

 

果たして、その約束は、私が一方的に交わしたと思い込んでいる約束ではなかったか。

 

 

もしかしたら、急にお父さんとお母さんが用事ができたのかもしれない。

 

もしかしたら、風邪を引いて寝込んでいるのかもしれない。

 

次に会ったら、まずなぜか理由を聞いてみなよ。

 

そんな正論も、宙に浮くようだった。

 

だから、何だと言うのだ。

 

そんなことで、息子の胸の内が晴れることもない。

 

そんな正論など、呪詛のように私と友だちへの怒りを表明する息子に、何の意味があるのか。

 

 

もう、あんなやつ、だいきらいだ。

 

違うだろう。

 

本音は、そこじゃない。

 

大好きな彼と、また楽しく遊びたかったんだよな。

 

その私の言葉を聞いて、息子の目が潤んだようだった。

 

ちがう!あんなやつ!

 

そうか、そうだよな。

 

もうすぐ大寒だというのに、吹く風は暖かかった。

 

暖冬のせいだけでは、ないような気がした。

 

 

とかく何にでも意味を求めたがるのは、現代に生きる我々の病なのかもしれない。

 

そこに、意味などない。

 

言葉など、記号に過ぎない。

 

それは、ただの飾りだ。

 

だからこそ、我々はそれを伝え合うのだが。 

 

f:id:kappou_oosaki:20200119221720j:plain

寒さは増せど、ずいぶんと日が長くなってきた気がする。

 

________________________

〇お問い合わせ先

執筆についてのご依頼・お問い合わせはこちらから。

Instagramnaoto_oosaki/Facebok:naoto.oosaki.5

Twitter@naoto_oosaki/LetterPot:users/13409 

________________________

〇今日の書斎:2020/1/19

1.寄稿記事:「王道と覇道(仮)」 構想中

2.ものがたり 構想中

________________________

〇大嵜直人の作品一覧はこちら

【大嵜直人の執筆記録】

________________________

断酒日記 【442日目】 ~十牛図。執着して、手放して、最後は日常に戻る

さて、断酒442日目である。

 

特に大きな変化もないが、変化がないことを記しておくのも、また大切なことなのだろうと思う。

 

過ぎ去った歴史を振り返るとき、教科書などに残るような事件や政変よりも、その当時の「当たり前だった」生活風俗といったものが、もっとも記録に残りづらくなるように。

 

最近は、断酒という機会を通じて、何かを得ることと手放すことについて考えることが、多くなってきたことくらいだろうか。

 

 

ここのところ、私が興味をそそられるのが「十牛図」である。

 

十牛図 - Wikipedia

 

中国は宋の時代の禅の入門書であり、悟りへの道を表した10の絵である。

有名なところでは、京都の相国寺所蔵の十牛図がよく知られている。

 

それぞれの絵には、中国北宋の僧・廓庵師遠(かくあんしおん)による漢詩の「頌(じゅ)」と、その弟子の慈遠(じおん)禅師が書いたとされる漢文の「序」がつけられ、その説明が添えられている。

 

十牛図における10の絵では、真の自己(悟り)が「牛」の姿で表され、その真の自己を求める自己は「牧人」の姿で表現されている。

 

牛は普段はおとなしく、物静かでありながら、一転してあばれると手が付けられなくなるあたり、人間の心の様子に似ている。

 

禅における悟りを開くまでの道筋を直感的な図に表しているとされるのだが、10のそれぞれの図が表しているとされることが、非常に興味深く、心惹かれるのである。

 

第一図:尋牛(じんぎゅう)

自分の牛(自分の本当の心)を探し始める。

牧人が旅に出る姿が描かれる。

 

第二図:見跡(けんせき)

牛の足あとを見つける。

図では、牧人が牛の足あとらしきものを眺めている。

 

第三図:見牛(けんぎゅう)

ようやく牛を見つける。

図に描かれた牛は、その一部だけである。

 

第四図:得牛(とくぎゅう)

牛を捕まえる。

図では、ようやく描かれた牛の全身に、牧人が縄をかけている。

 

第五図:牧牛(ぼくぎゅう)

牛を飼い馴らす。

ただし、図においては牧人の手にはまだ綱が握られている。

 

第六図:騎牛帰家(きぎゅうきか)

牛に乗って牧人は家に帰る。

図において牧人は、牛の背中で心おもむくままに笛を吹いている。

その手には、もう手綱はない。

 

第七図:忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

牧人は家に帰り、牛のことを忘れる。

図では、牧人が家でくつろいでおり、牛の姿はもはや見当たらない。

 

第八図:人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)

牛のことも、自分のことも、すべて忘れる。「空」の世界。

もはや、図には何も書いてすらいない。

 

第九図:返本還源(へんぽんかんげん)

すべて、元通りとなる。ありのままの世界を見る。

図では、花の咲く木が描かれている。花鳥風月、そのまま。

 

第十図:入鄽垂手(にってんすいしゅ)

街に出て生活する。世俗の世界に戻り、与え続ける。

図では、牧人が誰かに何かを説いている。与える。

 

画像が貼付できないのが残念なのだが、第十図までの一枚一枚が、何度読み返してみても趣深い。

 

牛(=本当の自分、あるいは悟り)を探し求めて、執着し、手放し、忘れ、そしてそれを探し求めたことすら忘れ、すべては元通りの世界になり、最後はまた俗世に戻って与えることをする。

 

これは悟りまでの道程を描いたものなのだが、執着と手放しの美しい過程で見ることもできよう。

 

手放した先にあるものは、結局「元通り」なのだ。

あるものを、あるがままに見る、という世界。

 

それは外界に起こることを、曇りなき眼でそのままに見続ける、ということでもあるし、自己の内面に起こる諸々の感情を、そのままにしておく、ということでもある。

 

これを、断酒という牛を追いかけた先にある世界、と見るのは、俗世にまみれすぎだろうか。

 

断酒して一年が過ぎたあたりの私は、第四図(牛を捕まえる)か、第五図(牛を飼い馴らす)あたりだろうか。

「絶対に飲んではいけない」とか、「何か大きなことを成し遂げたら、一杯だけ解禁しよう」とか、そういった状態は、まだまだ牛(=断酒、あるいは目標)に執着している、囚われていると言ってよい。

 

次の目標は、第六図、牛に乗って家に帰る段階だ。

もう、牛が逃げないように手綱を握ることもないし、ただ心の趣くままに、牛の上で笛を吹きながら、家路を楽しむような。

 

その先に、忘牛存人=断酒していることも忘れる、そして人牛倶忘=お酒そのものも忘れる、という世界が待っているのだろうか。

そして返本還源=すべて元通り、あるがままの世界とは、はたして自然に断酒している世界なのだろうか、それとも自然にお酒と付き合っている世界なのだろうか。

 

十牛図を眺めながら、そのときを楽しみにしていようと思う。 

 

________________________

〇お問い合わせ先

執筆についてのご依頼・お問い合わせはこちらから。

Instagramnaoto_oosaki/Facebok:naoto.oosaki.5

Twitter@naoto_oosaki/LetterPot:users/13409 

________________________

〇今日の書斎:2020/1/18

1.寄稿記事:「王道と覇道(仮)」 構想中

2.ものがたり 構想中

________________________

〇大嵜直人の作品一覧はこちら

【大嵜直人の執筆記録】

________________________

問題は口にした瞬間に、その人の問題になるんですよ、と彼女は言った。

カタカタカタ…

 

「はぁ…」

 

カタカタ…カタカタ…

 

「ふぅ…」

 

「なんですか、さっきから。キーボード打ちながらため息ついて、うるさいですよ」

 

「あぁ、すんません」

 

「そうやってすぐ謝って罪悪感に浸るより、ちゃんと説明した方がいいですよ。めんどくさいんで」

 

「お、おぅ…今日は初手から厳しいな…」

 

「もう、よっぽど男性は罪悪感が好きなんですね。ちゃんと言うようにしましょうね。『ぼくにかまってください』って」

 

「う…いや、そんなつもりじゃ…」

 

「そんなつもりでも、どんなつもりでも、どちらでもいいです。で、どうしたんですか」

 

「いや、この前のミーティングで、見積り資料の整理を議題に上げたんだけど」

 

「ああ、客先別だったり、時系列だったり、案件別だったり、分類の仕方が担当者によってバラバラで、過去資料が活用されてないってやつですか。世の中はAIだのRPAだのIPAだの言ってますけど、まあウチみたいな規模のところは、それが現実ですよね」

 

「まあ、みんな過去資料の整理よりは、前のめりになっている方が性に合ってるんだろ。とはいえ、過去資料って財産だからなぁ、と思って」

 

「ええ、そう思いますよ。で、それがなんでウネウネしたため息になるんですか」

 

「いや、議題に上げたのはいいんだけど、言い出しっぺがってことで、『過去データ整理プロジェクト』のリーダーに任命されて」

 

「いいじゃないですか」

 

「でも、みんな忙しいのか、忘れてるのか、まるで他人事で」

 

「へえ」

 

「こうして時間を見つけては、一人でシコシコやってるんだけど、テンション上がらないんだわ」

 

「それで?」

 

「それだけ」

 

「ふーん」

 

「ふーん、って…何とか言っておくれよ…ダメ出ししてくれた方が楽だわ」

 

「いや、何も問題ないじゃないですか」

 

「えぇ?いや、言い出しっぺで引き受けたのはいいけど、誰も手伝ってくれないしさ、過去資料の整理も全然進まないし…」

 

「まあまあ。それより、知ってました?今年は、祝日砂漠の月が3つもあるんですよ?」

 

「は?なんだ、それ?」

 

「年末がある12月はいいとして、梅雨でありながら祝日が砂漠の6月は例年通りなんですけど」

 

「ああ、6月も12月も祝日ないね」

 

「2020年の今年は、それに加えて何と10月も祝日砂漠なんです!」

 

「え?なんで?10月って…何かあったよな…?そう、体育の日」

 

「いえ、いまはスポーツの日です。それが東京オリンピックのせいで、7月に移動しているんです」

 

「…あぁ、ほんとだ。4連休になってる。そういえば、開会式がどうのこうのって、ずっと前に誰かが言ってた気がするな」

 

「そうなんです。だから今年は10月も祝日砂漠です。9月の連休が終わった後、11月まで3連休がないんです」

 

「お、おぅ…」

 

「あ、どうでもいいって目をしてる」

 

「いや、そんなことはないが…うーん」

 

「それと同じです」

 

「は?」

 

「おんなじ、問題ですよ」

 

「いや、祝日砂漠とプロジェクトは別だろう」

 

「そうですかね?本質的には、同じような気がしますけど。結局、問題だと思ってるのは、一歩引いてみれば、その人だけだっていう」

 

「うーん、祝日砂漠は、別に有休でも何でも取ればいいんじゃないか。でも、プロジェクトは…」

 

「だからぁ、アタシは有休を消費しない、合法的な3連休が欲しいんです。プロジェクトなんて、別に誰かを巻き込んで進めればいいじゃないですか。それが自分にできないんなら、白旗上げちゃえば」

 

「いや、まあ…うん…」

 

「結局のところ、問題は口にした瞬間に、その人の問題になるんですよ。よくいるじゃないですか、他人の言動だったり、世の出来事だったりを、『これは問題だ』みたいな批判する人。あれは、そう言ってる人の問題でしかないと思いますけど」

 

「今日は厳しいな…何か変なもの食ったのか?」

 

「食べてないです。いつも通りです」

 

「そうか…そうだよな。問題は、それを口にした人の問題、か」

 

「そうです」

 

「じゃあプロジェクトの問題は、問題じゃないことにするよ。だって、目の前に手伝ってくれる優しい仲間がいるんだから」

 

「いや、いないです。今日は甘いものがないので、電池切れですから」

 

「えぇ…?問題だな、それは…」

  

________________________

〇お問い合わせ先

執筆についてのご依頼・お問い合わせはこちらから。

Instagramnaoto_oosaki/Facebok:naoto.oosaki.5

Twitter@naoto_oosaki/LetterPot:users/13409 

________________________

〇今日の書斎:2020/1/17

1.寄稿記事:「王道と覇道(仮)」 構想中

2.ものがたり 構想中

________________________

〇大嵜直人の作品一覧はこちら

【大嵜直人の執筆記録】

________________________

娘、という存在。

何かの気配を感じて、目を覚ます。

 

ここはどこだったのか、しばしぼんやりしながら考える。

 

ふと目を遣ると、隣で寝ていたはずの娘が起きていて、こちらを見ている。

 

悪戯っぽく笑いながら、

 

おとうさん、おといれ、いっしょにいこう?

 

と娘は言う。

 

ああ、いこうか。

 

真っ暗な部屋の中、手探りでスマートフォンを探す。

 

ライトを点けて、足元を照らしてトイレへ歩く。

 

スマートフォンの時間を見ると、3時半を回ったところだった。

 

暖冬とはいえ、足元は冷える。

 

トイレのドアの向こうからは、鼻歌が聴こえてくる。

 

こんな真夜中に起こしておいて、呑気なものだ。

 

それが、たまらなく、愛おしいのだが。

 

 

異性の子どもというのは、どうにも不思議な存在のようだ。

 

母親にとっての息子と、父親にとっての娘。

 

その不思議さ、そして愛おしさは、どうも非対称のような気がする。

 

母親、父親、という一般名詞で語ることは、適切ではないような気もする。

 

一般名詞で語るとき、人はどこか気恥ずかしさを隠している。

 

実際のところ、「私にとって」というだけの話を、「父親にとって」と拡大解釈することに、あまり意味はないのだろう。

 

われわれは結局、自分自身を体験するだけなのだ。

 

ツァラトゥストラはこう言った

フリードリヒ・W・ニーチェ岩波書店

 

結局のことろ。

 

生とは、自分自身が何かを体験するだけのことであり。

 

そして、何を体験するかは、予め自分が選んでいるのかもしれない。

 

= 

 

夜中に起こされても、

喜んでトイレについていき。

 

少し浮かない顔をしていると、

嫌なことがあったのか心配になり。

 

何かあったのか聞いても、

別に何もない!と怒られて。

 

余計なことを言って、

大嫌い!と言われても。

 

あの、小さな身体を抱っこしたときの

温かさを、いつまでも覚えているのだろう。

 

そんな存在が、世界にあることが、

ただ、ただ驚きで。

 

そんな存在が、そこにいることが、

ただ、ただ喜びで。

 

ただ、愛おしく。

 

 

水を流す音とともにドアが開いて、娘は手を洗いに行く。

 

私も起きてしまった手前と思い、トイレに入る。

 

ぼんやりとしながら。

 

水を流しドアを開けると、娘はそこで待っていた。

 

また、あの悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 

それが、たまらなく、愛おしい。

 

f:id:kappou_oosaki:20190925070015j:plain

トランプが好きな娘。

 

________________________

〇お問い合わせ先

執筆についてのご依頼・お問い合わせはこちらから。

Instagramnaoto_oosaki/Facebok:naoto.oosaki.5

Twitter@naoto_oosaki/LetterPot:users/13409 

________________________

〇今日の書斎:2020/1/16

1.寄稿記事:「王道と覇道(仮)」 構想中

2.ものがたり 構想中

________________________

〇大嵜直人の作品一覧はこちら

【大嵜直人の執筆記録】

________________________