大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

写真が嫌いだった、あの頃。

写真が嫌いになったのは、いつからだったのだろうと思う。

 

幼い頃の写真が数えるほどしか残っていないのは、私が三番目の子どもだったからなのか、それとも実家を整理したときに失われたからなのか、いまとなっては分からない。

 

「撮られる」側から、自分で意図して写真を「撮る」側の年齢になった頃、思春期の頃だろうか、まだ私は写真をよく撮っていたように思う。

 

当時、もちろんスマホなどなく、ちょうど「写ルンです」というインスタントカメラ(たしか「カメラ付きフィルム」という正式名称だったように思う)を抱えて、よく撮っていたように思う。

 

卒業式、課外実習や修学旅行や部活、そして何かのイベントの打ち上げの写真…まだその頃の私は無邪気に笑って、懐かしい顔の友人たちと写っていた。

 

下宿して携帯電話を持つようになって、すぐにその画面がフルカラーになり、カメラ機能が付き、「写メール」なるものが世に生まれて、カメラがより身近になって、よく撮っていたように思う。

 

いまからするとスズメのナミダのような容量の携帯電話本体のメモリーに、どの写真を残すか、いつも迷っては断腸の思いで削除していた。

 

 

そうすると、写真を撮る機会が減っていったのは、両親との別離の後からなのだろうか。

 

別離の後にワーカホリックにしていた頃、20代後半から30代半ばまでの頃なのだろうが、送別会だとか、仕事関係の写真はあっても、プライベートの写真というものが、ほとんどない。

 

かろうじて、子どもが生まれた後は彼らの写真を撮っていたが、驚くほど自分が映っている写真や、美しいと思う風景を撮った写真がないのだ。

 

外界に見るのは自らの内面の投影だとするなら、いかに心を閉ざして何も見ていなかったか、とも言えるし、写真を撮るだけの心の余裕がなかった、とも言えるのだろう。

 

あの頃、季節の巡りにほんとうに疎くて、いつも衣替えが億劫でしかなかったように思う。

 

それがいいも悪いもない。

 

ただ、そうするしかなかった、というだけのことなのだと思う。

 

切っていた感情を取り戻し、自分の好きなものを思い出していく中で、私のスマホの写真のフォルダは、子どもや家族の写真の他に、美しい風景や美味しかった料理や楽しい飲み会の写真が増えていった。

 

それらの写真は日々増えていくのだが、いつでもその思い出を見たくて、クラウドや外付けの記録媒体に移せないでいる。

 

 

私が嫌いだったのは、写真というよりも、自分の顔だったのだろうか。

 

自立をこじらせ、斜に構え、孤独に拗ねていた私は、「写真なんて、そんなに好きじゃないよ」とうそぶいていたのだろうか。

 

そのうちに、流行し始めたSNSに自撮りをアップしたりする人を見て、「バカじゃないの?」と勝手に見下していた。

 

ホントは、自分もやりたかったのに、「自分は自分の顔が嫌いだから、みんなも嫌いなはずだ。だから自撮りのアップなんてできない」と勝手に拗ねて、勝手に怒っていただけなんだろうと思うと、赤面しそうなくらいに恥ずかしい。

 

そりゃ、本当は楽しそうに自撮りをする人みたいに、自分の顔を好きになれたらいいなぁ、って憧れてるのに、どうしても自分の顔を愛せなかったら、自分を正当化しちゃうよな、とも思う。

 

単に、うらやましい…と思ってる自分がいることを、認められないだけ。

 

きっとそれは、自分の人生と全く関わりのない芸能人の不倫のニュースを見て、それを正論で叩く心理と同じなんだろう。

 

正しさを証明したくなる時は、自分の中のデリケートで柔らかな傷ついた部分が刺激されている時なのだから。

 

まあそれはともかく、いまとなっては、こんな野球観戦前のワクワクの写真をアップしようと思えるくらいにはなってきた。

 

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撮り慣れてない感満載だけれど、それでもいいや。

 

 

学生の頃に出会った友人が、

 

「私、写真嫌いなの。いまこの瞬間は、私だけのもの。だから、残したくないの」

 

と話していたのを、思い出す。

 

とんでもなく美しい音色のヴァイオリンと、魂震わせる演歌を歌う感受性と芸術性豊かな彼女の言葉には、妙に説得力があった。

 

彼女の中では、それはそうなんだろう。

 

それでも私は、

 

地元の神社のものと思われる酒樽の山の前で優しい眼をした祖父と映る写真や、

 

南極観測船を観に訪れた名古屋港で引率したと思われる祖母と笑う写真や、

 

家族で訪れた知多半島の夏の海辺の写真や、

 

今となってはどこか分からない山の頂上で、微笑む母と写る写真を、

 

いつも手帳に挟んでいる。

 

その写真たちを、私はふとしたときに見返す。

 

ただ、ぼんやりと眺める時間。 

 

それは、

 

ただ、愛に包まれる時間。

 

写真が好きになる時間。

 

それは、自分が少し好きになる時間かもしれない。

 

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ランニングの再開と、「やる気」についてのパラドックス

何か外的要因で「やる気」を出すのは簡単だけれども、自ら「やる気」を出すのは本当に難しい。

 

雑誌やネットで「健康にいい」という情報を見て、「やってみよう」と思い立っても、なかなか「腰をあげて実際にやる」までには至らない、というように。

 

「やる気」は、「やりはじめないと出ない」という天邪鬼な性格のようだ。

 

ということは、「やる気を出すことの」よりも、「やる気がなくても、とりあえずやり始める」ことの方が大切なのかもしれない。

 

 

また少しずつ走り始めた。

 

以前のように疲労骨折しても走り続ける、みたいな「続けられないと自分には価値がない」という思い込みではなくて、無理せず、できる範囲で。

 

やはり走ったり、身体を動かすことは、思考やメンタルに大きく影響するようで、ぐるぐるとしていた思考も、ランニングから帰ってくるとスッキリする。

 

走り始めてしまえば、道行く景色だったり、今日の月の表情であったり、あるいは今日の流れる空気の雰囲気だったり、楽しみがあって飽きない。

 

ある程度走って身体が暖まると、心地よくなってくるし、その日の眠りの質も深いように思う。

 

けれど、それは分かっているんだけれど…これが走り始めるまでが面倒で、時間を見つけて、着替えて外に出る、というところまでたどり着くまでがネックだ。

 

走ること自体が苦痛なのではなくて、走り始めるまでが苦痛なのだ。

 

 

それもそのはず、「やる気」を生み出すのは、脳の側坐核という場所にあり、そこに刺激が与えられることで活性化し、「やる気」が生み出される、という仕組みになっているそうなのだ。

 

つまり、「やる気」を出そうとするならば、「やり始めるしかない」というパラドックス

 

やりはじめないと、やる気は出ないらしい。

 

ということは、ランニングなり、他の何かでも、自分がいいと思う習慣を続けようとするならば、それを半強制的にでも「やり始める」状況を作るのが早いようだ。

 

どういう状況なら、必ず「やり始める」ことができるのか。

「やり始める」ハードルを、いかに下げるのか。

 

そういったことを楽しんで考えていくのも、習慣化の楽しさのように思う。

 

 

ということで、せっかく再開したランニングであるので、そのランニンググッズ(着替えとシューズ)を、普段の通勤の車に積んでおくことにした。

 

家に帰ってくつろいでしまう前に、着替えて1キロでもいいから走る。

 

何なら、着替えただけでもよしとする。

 

それくらい「やり始める」ハードルを下げて、末永く走り続けてみようと思う。

 

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ランニングしていると、いつもの街並みからこんな美しい夜景が見えることもある。

 

そして、ランニングはさまざまなところへ走っているように見えて、実はどこへも行っていない。

 

必ずスタート地点へ帰ってくる。

 

どこへも行かない。

 

このあたり、ランニングと瞑想が似ているところでもある。

 

そしてそれはまた、人生の縮図でもある。

 

遠くへ来たように思えても、実はどこにも行っていない。

 

私はここにいる。

 

あなたはここにいる。

 

ここにしか私はいない。

 

ここにしかあなたはいない。

 

また、走り続けてみよう。

 

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もっと、好きなことに、無心で。

週末、息子とクワガタ捕りに出かけた。

 

この時期特有の気まぐれな天候に、決行日を振り回されたけれど、子どものワクワクのエネルギー、そして必要以上に心配する大人の浅はかさ…いろんなものを見せてくれた。

 

信じることも、心配することも、疑うことも、結局は同じ愛から流れ出ているものに過ぎないのだが。

 

 

この時期の天気は、本当に不安定でよく変わる。

 

先日の梅雨の合間に見た青空があったかと思えば、突然激しい雨が降ったりする。

 

息子と約束してた週末の土曜日の予報は、その週の前半には晴れだったのだが、週中からどうも様相がおかしくなり、金曜日には完全に雨傘のマークがついた。降水確率は一日中90%と出ている。

 

全国的な荒天は日曜日まで続き、災害を警戒するように、というニュースまで流れている。

 

雨の山道は危ないし、そもそもお目当てのクワガタは出てこない。

 

今年も同行してくれる友人の「クワガタ先生」と相談し、いったん土曜日を延期にすることにした。

 

雨予報と中止を聞いた息子は、予想通り大暴れした。

 

なんで雨なんだ!

雨はイヤだ!

雨男はおとうか!

だから先週行っておけばよかったんだ!

なんとかしろ!…と。

 

よく「雨男」なる言葉を知っているなぁ、と妙に感心しながら、天気以上に大荒れの息子をなだめる金曜日の朝。

 

よく晴れていた朝から、午後になると分厚い雲が空を覆い始めていった。

 

 

翌土曜日の朝5時に、息子に叩き起こされた。

 

「雨、降ってないぞ!ちゃんと昨日、雨が降らないようにお祈りしておいたから!いまから行くって、クワガタ先生に言って!」、と。

 

事実、雨は降っていなかった。

 

息子の祈りが通じたのだろうか、空一面に分厚い雲が出ていたが、雨は降っていない。

 

ただ、そうは言っても、これから天気がどうなるか分からないし、まして山の近くの天気は変わりやすい。

 

それでも行く、と強硬に主張する息子。

 

好きなことというのは、こんなにも純粋なエネルギーを与えてくれるものなんだな、と思わされる。

 

天気予報を見ると、明日の午前中まで渋った天気だが、午後は晴れそうだ。

 

日曜日の夕方にしようと息子に言い、クワガタ先生の約束を取り付けた。

 

 

日曜日の夕方、渋滞する車の中、助手席で焦れる息子を横目に、私は心配になってきた。

 

これだけ楽しみにしていて、もしクワガタがいなかったら、どうしようか。

いや、自然のことだから、十分にその可能性はあるよな…

そうしたら、息子はどれだけガッカリするだろう…

自分の祈りが通じて、せっかく土曜日に雨が降っていなかったのに、なんで連れて行ってくれなかったのか、とか思うのかな…

 

思考というのは、シミのようなもので、一度染み出すと際限なくそちらの方向へ考えだす。

 

考えても、仕方のないことなのに。

 

日曜の夕方の幹線道路は大渋滞していて、息子に急かされて出たのが正解で、約束の時間ぴったりに着くことができた。

 

蚊よけの長袖とパーカーを着て、祈るような気持ちで車を降りて歩き出す。

 

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神々しい夕陽。

 

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その夕陽が、雨に濡れた草を照らしていた。

 

ほどなくして、お目当ての木の近くにたどり着く。

 

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…いた。ノコギリクワガタだ。

 

木のうろに、すっぽりと身体を隠している。

 

木の枝を使って、うろの中からほじくり出して、捕獲した。

 

心配性で怒られたおとうも、少しは息子の前でいいところを見せられたのだろうか。

 

根本の方には、もう一匹ノコギリクワガタと、小さなコクワガタのメスもいて、都合三匹のクワガタを捕まえることができた。

 

 

帰りの道中、後部座席で捕まえたばかりのクワガタを、満足げにしげしげと息子をバックミラーで眺めながら、捕まえられてよかったと思った。

 

それにしても、いつからあの息子のような純粋にワクワクすることや、明るい未来を信じる心が、心配したり疑ってしまうことに変わってしまったのだろう。

 

心配したり、疑ったりすることが悪い訳でもない。

 

結局、それも息子を想う気持ちの裏返しであることは分かっている。

 

ただ、無心で壁にボールを投げて、夢想していたあの頃。

 

あの頃の私も、息子と同じ瞳をしていたのだろうか。

  

好きなことを無心で歩くことが人生の要になります。

 

去年、聞いた言葉を思い出す。

 

もっと、好きなことに、無心で。

 

それが見つからなければ、何でもひたすらにやればいい。

 

ただ、ひたすらに自らの心震わせ、喜ばせることに夢中に。

 

できるはずだ。

 

いまの私の瞳に映る息子の姿もまた、私の内面の投影に過ぎないのだから。

 

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嘘とライフワーク ~映画:「SMOKE」(1995年、アメリカ)に寄せて

久しぶりに大好きな映画「SMOKE」を観た。

 

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学生の頃に観て以来、何度も見返すくらい好きな映画の一つだ。

 

10代、20代、そして30代と人生の中のさまざまな季節を経る度に、違った感傷を受けるのだが、それはきっとこれからも続いていくのだろう。

 

ブルックリンの街の片隅で煙草屋を営むオーギーは、必ず毎朝決まった時間に店の前の風景の写真を撮ることをライフワークにしている。

 

店の客で、オーギーの親友であるポールは、閉店間際に煙草を買いに来たついでにオーギーのライフワークである、その4,000枚の写真を見せてもらう。

 

10年以上も休みなく撮り続けたというその写真を見て、「なぜこんなことを?」とポールは聞くが、オーギーは「なんとなく、さ」と答える。

 

その膨大な写真の中で、ポールは亡くした最愛の妻の写真を見つけ、落涙する。

 

その後、ポールが車に轢かれそうになったところを助けたラシードや、オーギーの別れた妻であるルビーなどが登場し、物語を織り成していく。

 

ラストでオーギーが語る「クリスマス・ストーリー」の回想の、モノクロのシーンだけで、この映画を観てよかったと思える。

 

トム・ウェイツの歌声が、涙を誘う。 

 

youtu.be

 

オーギーを出迎えたおばあさんの表情の移り変わりが、もう見事としか言いようがなくて、何度見ても俳優という仕事の凄味を感じさせてくれる。

 

 

とまあ、ストーリーのネタバレは探せばどこでも出てくると思うのだが、今回またこの映画を観て、刺さったのは「嘘とお金」、そしてやはり「ライフワーク」という部分だった。

 

ラシードが街のチンピラから盗んだ5,000ドルは、ラシードがオーギーの裏仕事として輸入していたご禁制のキューバの葉巻を不注意で台無しにした「詫び」として払われる。

 

始めは拒絶しながらもそれを受け取ったオーギーは、別れた妻のルビーへ、麻薬中毒の娘を療養させる治療費として渡す。

 

一見してよくできた循環のように見えるのだが、その循環を支えているのは「嘘」なのかもしれない。

 

まずラシードがその5,000ドルを持っていることの「嘘」(チンピラから盗んだ)からはじまり、それを受け取ったオーギーは、別れ際にルビーに「ほんとうにおれの子か?」と問うが、ルビーは「わからない。フィフティ・フィフティよ」と答える。

 

ルビーはほんとうに分からないのかもしれないし、実は誰の子かわかっていて嘘をついているのかもしれない。

 

それでも、その答えを聞いてオーギーはほんとうにいい表情を見せるのだ。

 

歳を重ねるにつれ、こうした場面が好きになってきた。

 

何が「嘘」で、何が「事実」かなど、大した話ではないのかもしれない。

 

それは、作中で彼らがくゆらせる煙草の煙のように、はかないものなのだ。

 

大切なのは、それを聴く側の「真実」だ。

 

それは、いくらでも変えられる。

 

オーギーが「なんとなく」始めたライフワークの写真。

 

最後のシーンで、オーギーはそれに使用するカメラが、盲目の老婆からの盗品であることをポールに語る。

 

その話すらも、オーギーの作り話からもしれない。

 

けれど、ポールはその話を聞いて満足そうに笑みを浮かべる。

 

それで、いいのだ。

 

嘘からはじまるライフワークもある。

 

そして、それが時に最愛の妻を亡くした親友を癒すこともある。

 

全ては、煙草の煙のように、不確かで、ゆるやかで、そして儚い。

 

 

あらためて、いい映画だな、と思った。

 

他にも語りたいイイ場面がたくさんあるのだが、とりあえずこの映画の問題点は、観ていると止めていた煙草が吸いたくなることだ。

 

どの煙草を吸っているシーンも、カッコいいのだ。

 

それはともかく、また年を重ねて見てみたい、大好きな映画である。

 

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書評:落合陽一さん著「日本進化論」に寄せて

「現代の魔法使い」と称される、落合陽一さんの「日本進化論」(SB新書)を読んだので、その書評を。

 

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本書は落合陽一さんと現・衆議院議員小泉進次郎さんの共同企画で開催された、「平成最後の夏期講習」という2018年7月にニコニコ動画の生放送番組の内容と、その場で展開された議論をベースになっている。

 

 

 

その議論の前提として、現在の日本の抱える社会問題の根本原因には、少子高齢化とそれにともなう労働人口の減少にあるとし、その課題を解決するためのテクノロジーの導入が必須であると著者は考えている。

 

そのために「テクノロジー(technology)によって何が可能になるか」という議論を、政治(politics)の議論の中で考えていくことが必要、というポリテックという概念が重要であると述べている。

 

そうした前提のもとに展開される、「高齢者」、「子ども」、「働き方」、「財政」、「スポーツ・健康」、「教育・コミュニケーション」の各々の議論は、どれも非常に興味深く、読みふけってしまった。

 

どの議論も、困難な状況と問題を抱えながら、それでも著者はテクノロジーもたらすポジティブな未来を信じて、粘り強い議論を重ねている。

 

繰り返し本文を通してお伝えしてきましたが、日本社会はポリテックをテコに課題解決できる余地が数多くあります。ポリテックをカギにポジティブな未来像となるようなビジョンを構想し、それを伝えていくことは僕たちにとって最大の課題でもあります。

 

落合陽一さん著「日本進化論」 p.232

 

そして、その議論とは、遠いどこかの天才たちの机上の話しではなく、いま私が暮らす日本で起きていることの議論なのだ。

 

これは、どんな素晴らしいビジネス書も、あるいはセミナーといったものもそうなのだが、「いかにその内容を、自分の実生活に落とし込むか」ということが最も肝要である。

 

著者自身も、今後個人が備えるべき視点について語っている。

 

そうならないために個人が備えるべきは、今までの常識+固定観念にとらわれない柔軟でフラットな視点です。これは、「平成最後の夏期講習」でディスカッションする際に僕が提示したルールでもあります。頭ごなしに否定するのではなく、相手がなぜそのように考えたのかまで思考が及ばなければ、向かうべき方角について議論できません。そのためには、どれほど非常識で受け入れ難い意見であっても、それが誰のものであっても、一度は飲み込むことです。イノベーションはいつだって、常識を疑うことからはじまります。

 

同上 p.233

 

そうなのだ。

 

どんな天下国家を論じようとも、 まずは自分のできることから、なのだ。

 

そして、それは「相手がなぜそう考えたのか、思考をめぐらせてみる」という小さな小さな点からはじまるかもしれない。

 

そんなことを考えさせられる、刺激的な議論に満ちた一冊だった。

 

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梅雨の合間に。

梅雨の合間の空の色は、もう夏色だった。

 

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春先の輪郭のぼやけた色調は、もうどこにもなく、透き通った青色のグラデーションが広がっている。

 

流れる雲の形も、なぜか夏を感じさせる。

 

降ったり止んだりの空が続いていたが、梅雨の合間の太陽は喜びに満ちているようだ。

 

 

ふと、一筋の飛行機雲を見て、私は寂しさを覚えた。

 

外界の世界から感じることは、ただ自分の内面の投影である。

 

「強烈に一人になりたい私」と、

「痛烈につながりたい私」が、

どうも私の中では共存している。

 

つながりの中にいると一人内省の時間が欲しくなり、

一人でいるとつながりを求める内なる叫びが聞こえる。

 

つながりが切れることへの怖れは、いつから私の中に住みついているのだろう。

 

それは親しい人との別離の経験よりも、もっと古い記憶のような気がする。

 

その記憶は、果たして事実なのだろうか。

それとも、私の中の真実なのだろうか。

 

事実ならば変えられないけれど、

真実はいくらでも変えられる。

 

別離は事実なのかもしれないが、

孤独は真実ではないかもしれない。

 

切れていると思うから、つながろうとする。

されど、つながっていることが分かっていれば、大丈夫なのだ。

 

つながりを忘れ、そして思い出し、また忘れ…

それは、寄せては返す波のように訪れる。

 

人は、その波の合間を縫って生きる。

 

梅雨の合間の太陽のようなものなのかもしれない。

 

 

すべての「答え」は、その「問い」の質が反映される。

 

欲しい「答え」を得ようと思うなら、

「問い」の質を高めることだ。

 

そして、「問い」が生まれた瞬間に、「答え」もまた同時に生まれている。

 

それは、

どこかここから遠くではなくて、

誰かすごい人の語る言葉の中ではなくて、

積まれた書物の中にではなくて、

 

私の、内側に。

 

 

夏空に、私は問う。

 

寂しさを癒すものは、何だろう。

 

別れ際の「またね」を実現することなのだろうか。

 

楽しかった、その時間を語ることなのだろうか。

 

どれも正解なのだろう。

 

 

見上げれば、ずいぶんと雲は流れ、夏空の模様は大きく変わっていた。

 

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飛行機雲よ、またね。

また会おうね。

 

そう言って、私は歩き出す。

 

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理不尽を、愛せ。 ~令和元年のダービーが教えてくれたもの

早いもので、令和初の日本ダービーからもう半月が過ぎた。

 

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浜中騎手とロジャーバローズのウインニング・ランの勇姿。

 

いまも瞼に焼き付いている。

 

あれから時間を重ねてあのダービーを思い出すたび、聴こえてくる声がある。

 

 

今回のダービーでは、西山牧場の執念・ニシノデイジーと勝浦騎手を応援し、しこたま馬券を買っていた。

 

同時に、圧倒的1番人気のサートゥルナーリアを軸とした馬券も、しこたま買っていた。

 

ところが、先頭でゴールを駆け抜けたのは、12番人気・単勝9,310円のロジャーバローズだった。

 

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馬群がゴールを駆け抜けた後の、唖然とした場内の雰囲気。

 

称賛も怒号もなく、ただ、結果を呆然と眺めるしかない。

 

圧倒的1番人気を背負った馬が、負けた。

 

あれほど確実だと思われた未来は、わずか142秒6の刹那が過ぎれば、ただの儚い妄想だったことを思い知る。

 

突然冷や水をぶっかけられたような、

微笑みを湛えた美女にいきなり頬をピシャリと叩かれたような、

感覚で明らかに遅刻と分かる時間に目が覚めた瞬間のような、

…そんな時間。

 

居合わせた者は、呆然と顔を見合わせる。

 

これは現実か、と。

 

しこたま買って、しこたま皮算用した馬券は、一瞬で紙屑になる。

 

メモ用紙にもならぬ。

 

理不尽だ。 

 

 

ダービーの翌週の安田記念でも、圧倒的な1番人気に支持された現役最強の誉れ高きアーモンドアイが敗れた。

 

スタート直後に他馬が斜行して不利を受け、厳しい後方からの競馬を強いられる。

 

先行馬の止まらない馬場とペースの中、アーモンドアイはそれでも異次元の鬼脚でよく追い込んできたが、わずかに届かず3着まで。

 

誰が見ても、一番強い競馬をしたのはアーモンドアイだったが、彼女にとっては理不尽な不利を受けて勝ち馬にはなれなかった。

 

強い馬が勝つとは限らないのが、競馬だ。

 

それは理不尽ではあるが、競馬の魅力でもある。

 

強い馬、速い馬と勝ち馬がイコールの競馬など、観る価値もないではないか。

 

「思いもよらぬ理不尽な不幸が起こること」

を受け入れるということは、

「なんか理由はよくわからんけど幸運に恵まれる」

ということだ。

 

 理不尽さを、受け入れろ。

 

それは、人生の豊かさと同義なのだ。

  

テレビの前で、そんなことを考えながら祭りの後の感傷にふける私に、

「お馬はもうはしりおわったから、はやくあそびにいくぞ!」 

と息子は急かす。

 

理不尽だ。 

 

 

よくよく考えてみれば、人生の中で確実なことなどありはしないではないか。

 

唯一あるとするなら、この不自由な肉体をともなった生が、有限であることだけではないのか。

 

量子の世界の例を引くまでもなく、この世は不確実なものに満ちている。

 

だいたいが、鍛え抜かれたサラブレッドが2,400mの距離を疾走するのだ。

 

2,400m?

 

体力測定の「持久走」よりも長い距離だ。

 

それだけ走って、たかだか数十センチ、ときには片手を広げた大きさにも満たぬ数センチの差を見て、私は一喜一憂しているのだ。

 

不条理だ。

 

けれど、その不条理さこそが人間らしさでもある。 

 

それこそが人間らしさであり、人生のスパイスだ。

  

確実なものなんかない。

 

はみ出していい。

 

理に適わなくていい。

 

ちゃんとしなくていい。

 

小利口になるな。

 

もっと自由でいい。 

 

理不尽を、非合理を、不確実性を、不条理を、愛せ。

 

人間を、愛せ。

 

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令和元年のダービーを思い出すたびに、私はその声を聴く。

 

そうだ、もっと。

 

もっとだ。

 

もっと、人間らしく生きろ、と。 

 

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