大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

書評:坪田信貴さん著「才能の正体」に寄せて

今日は書評を。

映画にもなった「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(通称:ビリギャル)の著者であり、「坪田塾」塾長でもある坪田信貴さんの著書「才能の正体」(幻冬舎)に寄せて。

最近触っているTwitterのタイムラインに流れてきてこの本を知ったのだが、そのタイトルの通りに明確に「才能の正体」を明らかにしてくれる一冊だった。

「坪田塾」で1,300人以上の生徒と向き合ってこられた著者のご経験から、

まず「才能とは何か?」を坪田さんの経験から定義され(第1章)、

そして塾長を務められている「坪田塾」で1,300人以上の生徒と向き合ってきた経験と心理的な側面から、個人の才能の伸ばし方についての具体的なメソッドを提示し(第2章)、

さらにはコミュニティの時代といわれる現代の社会に必要な組織論、マネジメント論を展開し(第3章)、

最後に坪田さんがお会いした「一流の才能を持った方々」との印象的なエピソードから、才能について考える(第4章)、

という構成になっている。

「才能」の芽は誰にでもあり、生まれもっての個人差というのは大差ない。

だからこそ自分の、そして周りの人の「才能」をどのように扱うかが大切であり、

またその「才能」を咲かせるための正しい努力というものが必要不可欠である、

ということがよく分かる一冊だった。

さて、私が読んでいて最もワクワクして驚きだったのが、「第1章」であった。

多くの人が、「才能」についてよく語る。

「あの人はもともと才能があるから」

「やっぱり私には才能がない」

「彼は地アタマがいいから」

「やればできる」

・・・などなど、まるで「才能」というものが所与のパラメーターとしてあるかのように扱う。

しかし、坪田さんはそうではないと仰る。

ご自身の大いなる勘違い(自分を天才だと思っていたら、IQテストの結果が悪すぎた)から、大学で心理学を修められ、多くの人が当たり前に語る「才能の正体」を突きとめようと、坪田塾での指導の記録を詳細に取って分かったことを、少し長いが引用させて頂く。

それは、才能というのは、結果でしかないということです。

どういうことか、ご説明しましょう。

いわゆる「才能がある」と言われている人たちがいますよね。彼ら、彼女らには共通点があります

それは、みんな努力をしていることです。

多くの人は“あまり努力をしなくてもできちゃう人”のことを「才能がある」と言いがちではないでしょうか。

でも、その考え方が根本的に間違っていることに、僕は気づいたのです。

人間というのは他の動物に比べて本質的にもともと頭が良くて、脳の構造からみてもとても優秀です。つまりすべての人が、優秀と言われる可能性をもともと持っているのです。

だとしたら、いったいどこで差がつくのでしょうか。

たくさんの子どもたちを見てきて言えるのは、勉強のやり方が間違っていたり、うまく継続できなかったり、動機付けができなくて意欲が湧かなかったり・・・など、いろいろな理由で、上達していかないことがあるんだということです。

いきなり本質的なことを言いますが、自分に合っていない、ふさわしくない場所でいくら頑張っても、物事は身つきません。

「才能がある」と言われている人たちは、

”その人に合った”動機付けがまずあって、

そこから”正しいやり方”を選んで、

”コツコツと努力”を積み重ねている。

「才能の正体」 P.27.28

この「才能」についての解釈は、多くの人にとって「大いなる福音」であるとともに、「ものすごく耳が痛い話」でもある。

例外なく、私にとっても。

生まれつきの「才能」という、自分が関与できないパラメーターのせいにしていれば、どれだけでも言い訳ができてしまう。

「あいつは、もともとそういう才能があったから」

「私にも、あんな才能があったらなぁ」

そう言って諦めながら、自分ではない何ものかのせいにして生きることを、坪田さんの仰る「才能の定義」は許さない。

誰にも特別な才能などはなく、ただそれを掘る者と、掘らない者がいるだけなのだ。

「人のせい=他責」にしたとき、つまり「自分のせいじゃない」と言ってしまった瞬間に、才能の芽はたちまち枯れ果ててしまいます。これは、自分で自分の芽を枯らしてしまう考え方だからです。

才能は、本質的に自分の中にあるものです。

いえ、自分の中にしかないのです。

自分を変えることはいくらでもできる。一方で、他の人や環境などは、自分の力では変えようがないもの。

もしあなたが、「すべてを他責にしている」「環境が原因でうまくいかないと思っている」という状況でいるとしたら、その思考から抜け出さない限り、才能の磨きようがありません。「誰かのせい」にしてしまっているせいで、実は、自分で自分を否定しています。早くそれに気づいてほしい。

「才能の正体」 p.81.82

「才能」に限らず、人は「結果」からものごとを見る。

そして、自分が納得する「物語」(「原因」と言い換えることもできる)を後からくっつける。

あの人にフラれたのは、自分に魅力がないからだ。

あの人が成功しているのは、才能があるからだ。

私が結婚できないのは、育った家庭に問題があったからだ。

・・・などなど、人は結果によって過去の解釈をまるっと変えてしまう。

しかし、真実はそうではない。

いくら魅力がある人でも、フラれることはいくらでもあるだろうし、

才能がなくても、成功している人はいくらでもいるだろうし、

どんな家庭で育っても、結婚する人はする。

自分を置いている地点(セルフイメージと言ってもいいと思う)から、過去の出来事を解釈してしまうのだ。

過去は、いかようにも解釈できる。

世界をどう見るか、自分で選び取ることができる。

私はこれまで数年間、このことを学んできたような気がするのだが、それについて「才能」という角度から同じ話が聞けて嬉しかった。

そのように「才能」を定義した上で、才能をどう磨いていくか(第2章)、子どもや部下といった他者の才能とどう関わっていくべきか(第3章)について、詳しく述べられている。

第1章を読み終えたあと、するすると読めてしまう。

特、2児の父である私にとって、他者の才能をどう扱うのかを心理学的な側面から書かれた第3章は、とても興味深かった。

あれせえ、これはいかん、と言ってしまいがちになるのだが、今日から「中立的なフィードバック」は始めてみようと感じた。

ことあるごとに、一つ一つの内容を読み返してみたくなる一冊になった。

最後にまた第1章に戻って、最も感銘を受けた箇所を引用させて頂いて、この書評を追えることにしようと思う。

それは、「本当の成功とは何か?」という項である。

僕がよくされる質問がこちらです。

「坪田先生の指導を受けても全員が全員、志望校に合格しているわけじゃないんですよね?失敗している子もいますよね?どうしてその子たちはうまくいかなかったんですか?」

こう聞かれたとき、僕は、

「うまくいかなかった子なんて、一人もいません」

と答えます。すべての子が、勉強をスタートした時点より、明らかに成長していますから。

(中略)

僕は、浪人してもいいと思うし、当初目指していた志望校と変わってもいいと思います。自分の将来の希望を叶えてくれる専門学校を見つけられたら、それもいい。場合によっては、試験当日に体調が悪くてうまくできなかった、という結果になってもいい。そうなれば体調管理がいかに大事かを身をもって知ることができます。

人生において、現役合格よりも、そっちの方が大事だと思いませんか?

僕に言わせれば「本当の成功」というのは、「100年かけても達成したい」と心の底から思うものを見つけることや、そういう思いを分かち合える仲間を見つけることです。

現役合格も、いい大学へ行くことも、あくまでその成功へ到達するまでの「通過点」でしかありません。手段と目的を取り違えると、せっかくの才能が無駄になってしまうことを、意外に知らない大人が多いのが残念です。

「才能の正体」 p.60~62

まさに。

100年かけても達成したいと思えること。

そして、そういう思いを分かち合える仲間を見つけること。

それこそが、「本当の成功」である、と。

ほんとに、そう思う。

そう考えると、私はすでに成功しているようにも思える。

こうして書くことで、自分の想いや経験を伝えていくことを続けていきたいし、ありがたいことにそれぞれライフワークを生きる仲間たちにも出会えた。

自信を与えてもらえるとともに、「才能」を伸ばす「努力」を重ねていこうと思う2019年の年明けになった。

坪田先生、どうもありがとうございました。  

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