大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

その傷は、誰のために。

きっと誰しもが、何らかの体質なり持病なりを抱えている。

アレルギー性鼻炎を持っていたり、
気圧が低くなると偏頭痛がしたり、
何か特定のものを食べるとお腹をこわしたり、
少し無理をすると腰にきたり・・・

そして、それらは長いことそれと付き合っている人ほど、自分の中での対処方法を分かっているものだ。

鼻炎がひどくなったらかかりつけの耳鼻科へ行ったり、
頭痛が出たらすぐにロキソニンを飲んだり、
お腹をこわす原因と思わしき食べ物をできるだけ避けたり、
腰の違和感が出たら意識的にお風呂に長く入るなり、

付き合いが長くなればなるほど、対処方法が分かってくる。

厄介なのは、自覚のない体質や病気だ。

沈黙の臓器が悲鳴を上げるときには、相当にひどい状況だろうし、
急に頭痛がきたりお腹をこわしても、思い当たる節がないと怖いものだ。

その体質や病気に気付くまでが、まず第一歩。

気づいたら、対処の仕方は世の中にいくらでもある。

片っ端から試してみればいいだけだ。

おそらくそれは、体質や病気のみならず「心の傷」というものも、そうなのだろう。

以前にこちらのエントリーで、自分の中の傷を隠し続けた結果、周りのあふれる愛を受け取れずに自棄になった男の話を書いた。

溢れる水を受け取れなかった男の話 - 大嵜 直人のブログ

自分のドロドロとした恥部を晒すような、どうしようもない話だったのだが、どうしても書かずにはいられなかった。

吐きだすことで癒しなり救いを求めていたように思うし、
薄々は気づいてた私の中の傷の核のような部分が、
誤魔化せなくなってきたようにも思う。

そんな恥ずかしいエントリーなのだが、それを書いたところ、不思議なことにいろんな方から感想を頂いた。

その中には、

とても心に響き、癒されました。

というありがたい感想まであった。

私の恥部の話しを聞いて、癒される???

どうにも頭から「?」マークが付いたままだった。

しかし、今日曇天のもとの山茶花を眺めながら歩いていると、ふとそのことが頭をよぎり、納得できたのだ。

もしも、その傷というものに意味があるとしたら。
その傷は、誰かに癒させてあげるためにあるのではないか。

欠点が直すべきものでもなく、
誰かに助けさせてあげる点であるように、

心の傷というものも、
誰かに愛させてあげるためなのではないだろうか。

だとすると、私たちは傷を晒すほどに愛されるのではないだろうか。

ただし、一番最初にその傷に気付いて、
その生々しい傷に文字通りの手当てをしてあげられるのは、
自分自身でしかない。

このあたり、体質なり持病を自覚しているかどうか、ということに似ている。

心の傷は、隠すほどに疼き、晒すほどに愛される。

そんなことを思う、曇天模様の年の瀬だった。

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