大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」に至るまでの、記録と変遷のブログ。

返歌。

自分の中で思い出したくもない宿痾のような光景を、

10月のおわりに衝動に駆られて書き殴った。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

周りの善き人の好意を、ずっと受け取れなかった話だ。

 

多かれ少なかれ、ずっと私は周りから受け取ることを拒否してきた。

 

いまキーボードを叩く指が震えるのが、その受け取ることへの抵抗の、確たる証拠のように思う。

 

差し出される愛を受け取るには、

ただニッコリ笑って「ありがとう」と受け取ること。

 

そんな単純なことが、ずっとできなかった。

 

だから犠牲にして、卑下して、癒着して、自分の価値を受け取ってこなかった。

 

 

「痛み」を冷凍保存していると、受け取るスペースがなくなる。

 

消化しきれない「痛み」がべっとりと臓腑にへばりついた状態で、

差し出されるものを受け取ることは難しい。

 

それが「痛み」か「薬」か「毒」か分からないからだ。

 

そのとき、経験則にしたがって「それは『痛み』なんだ」と、

受け取らずに空腹でいることを、人は選ぶ。

 

再びこの身体を蝕む「痛み」を食らうくらいなら、

空腹に身を任せた方がいい。

 

ひらたく言えば、

人間の悪意にひどいことをされ、こっぴどく痛い目を見た野良犬が、

それを知らぬ人間が善意で差しのべた手に噛み付くようなものだ。

 

それは、防衛本能だ。

 

私の中にも、まだたんまりとそれがあるようだ。

 

 

だからどうしよう、ということもない。

 

問題は解決しようとするほどに錯綜する。

 

もう、それが、私なのだ、と笑おう。

 

それでも、いままで出会った善なる人たちの無償の愛を想うと、

受け取れなかったものの大きさに愕然とするし、

またその罪悪感で自分を罰したくなる。

 

それでも、

 

それはそれとして、

 

もう、それが、私なのだ、と笑おう。

 

それが、私なのだ。

 

無条件に自分を肯定する、とはきっとそういうことなのだろう。

 

 

玉置浩二さんの「田園」が好きだ。

 

長すぎる静かな夜に、この動画でよく聴いていた。

 

不世出の二人の天才の競演。 

 

www.youtube.com

 

サビの部分の最後、一番では

 

僕がいるんだ みんないるんだ

愛はここにある 君はどこへもいけない

 

なんだけど、二番になると

 

僕がいるんだ みんないるんだ

そして君がいる 他に何ができる

 

になって、ラストのコーラスでは

 

僕がいるんだ 君もいるんだ

みんなここにいる 愛はどこへもいかない

 

に移り変わる歌詞が、本当に好きだ。

同じメロディなのに、違う調に聴こえる。

 

そうなんだ、

そうだったんだ。

 

みんなここにいる。

愛はどこへもいかない。

 

そして、

 

愛はここにある。

僕はどこへでもいける。