大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」に至るまでの、記録と変遷のブログ。

「なくなる」という強固な思い込みに気づいたお話し

何十年ぶりかに訪れた「お菓子の城」は、いろんなことを思い出させてくれた。

 

愛された記憶や、父や母の存在や、家族という暖かな感覚や・・・

 

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それを思い出していて、また違った気づきがあったので、今日はそのことについて綴ってみたい。

 

どうも私は、「何かがなくなってしまう」ことを極度に恐れるようだ。

 

「なくなってしまう」ことは実は思い込みで、何もなくなったり失われたりすることはないかもしれないのに。

 

 

「お菓子の城」を訪れた際に、2階のある通路に張り紙がしてあった。

 

「この先は老朽化のため、閉鎖させて頂きました」

 

その先は砂糖細工で世界の名所や民族衣装や、名古屋近辺の立体地図を表現した展示がしてある広いコーナーだった。

 

おぼろげながら幼い頃にこの城を訪れたことを思い出した私は、その表示を見たときに

 

ずきん

 

と胸が痛んだ。

 

いま思い出しても「老朽化のため閉鎖」という言葉が、胸を衝く。

 

そんな話は全国のテーマパークでいくらでもあるのだろうけれど、私にとって昔訪れたこの場所の一部が失われたことは、なぜか身体の一部を失うような喪失感を覚えた。

 

思い返してみれば、今回ばかりではない。

 

故郷の風景が変わってしまったときや、昔遊んだ場所がなくなってしまったとき、喪失感を覚えるのは誰にでもあると思うのだが、どうも私はその喪失感が人一倍強いのかもしれない。

 

それは、二十歳過ぎに両親を立て続けに亡くしたことで、「何かを失う」ことへの怖れをことさらに強くしてきたのかもしれない。

 

大切なものがなくなる、という悲しみ。

失ったものは二度と戻らない、という怖れ。

 

大切な何かを失って傷ついた経験があればこそ、そうした悲しみや怖れは強くなる。

 

もうこれから、あんな辛く悲しい経験をしないようにしよう。 

そんなふうに思うことは、自然な心の防衛本能であると言える。

 

けれども過剰な防衛本能は、私たちの心身を硬直させる。

 

もう失わないように、何も得ないようにしよう・・・

失うことが怖いから、もっと守りを固めよう・・・

別れることが悲しいから、出会わないようにしよう・・・

借金が怖いから、もっと貯金しなければ・・・

 

自然な反応は、いつしか気づいた時にはそんなふうに私の身体を重たく縛る鎖になってしまっていたのかもしれない。

 

愛情にしても、出会いにしても、お金にしても、

それを縛ろうとした瞬間に色を失い、手の中で灰色になっていく。

 

出したり入ったり、循環するから新鮮さを保って新しいものが入って来るのに、「なくなる」「失う」怖れは、そうした循環を止めてしまう。

 

 

ここで、

「別れの悲しみ」よりも、「出会いの喜び」にフォーカスしようとか、

「ないもの」よりも、「あるもの」を見つめようとか、

「執着する」よりも、「手放し」しよう、

 

と捉えて、思い込み・ブロックを外していくこともできるとは思うのだが、今日は少し違った考えをしてみたい。

 

いったい、私たちの身の回りで「なくなる」ということはあるのだろうか、という問いである。

 

ほんとうに「なくなる」ということなど、

あるのだろうか?

 

もっと言ってしまえば、

「ある」ということも、幻想なのではないか?

 

「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」

「生生流転」

 

の世界観ではないけれど、すべては流れていくのがこの世の常であり、「ある」という感覚は一つの錯覚のような気もする。

 

それは文学的な冗長な世界観のようでいて、量子力学でも同じようなことが言われているように見える。

 

ミクロの世界において量子の存在が「確率」でしか表現できないように、「ある」ということもあやふやで不確かなものなのではないか。

 

だとするなら、「なくなる」「うしなう」ということも起こりえないとも考えられる。

 

時間、お金、愛情、故郷、友情、大切な人・・・

 

ひょっとしたら、それらは「あるように見えてない」、「ないように見えてある」というぼんやり不確かな状態が、その正体なのかもしれない。

 

 

あるようでない

ないようである

 

ある、ない。得る、失う。

二元論で生きている限り、その振り子に振り回される。

 

けれど、ほんとうのところはそのどちらも同時に存在しているのではないだろうか。

 

ただ確かなのは、

私の頭上には青空が広がっていた、ということだけだ。

 

それはきっと、何十年か前に小さな私が手を引かれていた、

あの日と同じように。

 

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