大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

自分を愛するということ、価値を伝え続けるということ

気づけば、来年が親の十七回目の年忌の年だった。

あと数年もしたら、今生で一緒に生きられた時間よりも、亡くしてからの時間の方が長くなる。

酷い別れがあると、人は寂しさと悲しさを感じないように、我慢して生きるようになる。

その寂しさと悲しさと向き合い、そして分かち合う術を知らなかった私は、

我慢すれば嵐が過ぎ去り、もっとよい未来が待っていると思っていた。

それは、ある意味でその通りなのだが、ある意味でそうではないようだ。

心がショックを受けて、見えない血を魂が流し続けているときに、身体に鞭打って動こうとしない方がいい。

動物は、大きな怪我を負ったときは巣穴でじっと傷を舐めて過ごす。

同じように、人が心に大きなショックを受けたときには、

食べる、
横になって目を閉じる、
そして息をする

それをするだけで十分なのだから。

ところが、無理に動こうとしたのに動けないと、それを自分を否定する材料にしてしまう。

 こんなことになってしまって、ごめんなさい。

 こんなにも世話になっているのに、申し訳ない。

 あのときこうしておけばよかったのに、ごめんなさい。

自覚しようがしまいが、その罪悪感は真綿で首を絞めるように魂を蝕んでいく。

首にまとわりついたその罪悪感が、自らの存在価値を否定しきったとき、

人は生きる術を失う。

かつて、冬の早い夕暮れの薄暗いアパートのベッドで、私も生きる術を失っていた。

時間とともに徐々に落ちていく部屋の明度は、私の命のようだった。

そういった意味では、「何もしないことを許すために、いまできないことを我慢する」ことは、その通りなのだ。

ところが、相手も辛いのだから、この底知れない暗闇の蓋を開けてはいけない、という我慢は猛毒だ。

その我慢は、いつしかわたしもこれだけ我慢しているんだから、という自分の正しさを守る武器となる。

だから、あなたも我慢するべきだ、と。

この思考の枠組みは、結局のところ、

加害者と被害者

原因と結果

善と悪

正しいと誤り

という悲しい対立を際立たせることにしかならない。

被害者は次の瞬間に加害者となり、

原因を変えようとする行為がまた同じ結果を生み、

善と悪は共存できず、

正しい人は間違った人を追い詰める。

すべては、ここに「ただある」だけなのに、意味をつけて裁く。

そういった意味では、我慢をするということは危険なのだ。

そうした我慢は、罪悪感とは違った意味で人の心を蝕んでいく。

罪悪感と我慢。

ベクトルは違えど、それは自分を責め、そして人を責める方向に必ず向く。

そして人を責めるための矛先は必ず両刃であり、自分も責めることになる。

その螺旋から降りるには、やはりどこまでも自分を愛することなのだろうと思う。

 どんなわたしでも、わたしの価値は変わらない。

 わたしが何を失敗しようとも、何ができなくても、何も持たなくても、

 わたしがそれを見続ける限り、わたしの光は失われない。

 どこまでもまっすぐに、その光を見つめ続ける。

 どこまでも尊く、どこにもない、その光を、わたしは見つめ続ける。

 たとえ今は水面には鈍くぼんやりと見えるだけでも、

 海の底でたしかに輝くその光を、わたしは見失わない。

 わたしはわたしのかけがえのない価値を、見つめ続ける。

どんなネガティブに見える欠片の中にも、その光の輝きを見続けるという覚悟が持てたとき、

人はその言葉たちの「わたし」を「あなた」に変換するようになる。

自分の鏡のような周りの人に、その価値を伝えることができるようになる。

「わたし」は、今日ここを訪れて頂いた「あなた」に価値を伝え続ける。

 どんなあなたでも、あなたの価値は変わらない。

 あなたが何を失敗しようとも、何ができなくても、何も持たなくても、

 あなたがそれを見続ける限り、あなたの光は失われない。

 どこまでもまっすぐに、その光を見つめ続ける。

 どこまでも尊く、どこにもない、その光を、わたしは見つめ続ける。

 たとえ今は水面には鈍くぼんやりと見えるだけでも、

 海の底でたしかに輝くその光を、わたしは見失わない。

 わたしはあなたのかけがえのない価値を、見つめ続ける。

f:id:kappou_oosaki:20181006060049j:plain