大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

孤独を愛せど、孤立せず

「孤独」とはある種の物理的な状態のことであり、
「孤立」とは心理的な痛みを指すのだと思う。

たとえば私はよく一人で飲みにいくし、その時間がとても好きだ。

その時間はスマートフォンを触っていることもあれば、

酔って全然頭に入らないのに本を読んでいることもあれば、

ただぼんやりとイカが炭火でじりじりと焼けるのを眺めているときもある。

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周りの話し声や、来店するお客さん、お会計をして帰ろうとする人たち、店員の方の声や動き・・・そうした雑然とした音が渾然となって、「私」がお店の風景に溶け込んだとき、物理的には「孤独」ではあるのだが、安心感があるのだ。

おそらくは、私にとってのその時間は、自分の内面との対話の時間なのだと思う。

それほどお酒が強いわけではないので、たいていは酔ってその場はなんの結論も決断も出ないのではあるが、その時間が私に与えてくれるものは大きい。

瞑想も似たような面があるのかもしれない。

自分自身との、パートナーシップ。

自分の内面に橋が架かっていれば、「孤立」することはない。

 

考えてみれば、どこまでいっても人は物理的に「孤独」だ。

肉体は自他の境界線がはっきりとした肉体は、世界と私を明確に分ける。

離れた距離の友人を想うときも、愛しい人と0距離で接するときも、物理的には他人と分離した「孤独」な状態であることに変わりはない。

人は生れ落ちた時から、「寂しさ」という感情を抱えるといわれる。

それは、母親の胎内という絶対的に安心感に包まれた場所から、痛みとともに外界へ放り出されたとき、私たちは物理的な「孤独」を感じるからなのかもしれない。

その物理的に分離しているという「孤独」は、人がまた全体に還るときまで変わることなく続く。

その分離を「寂しい」と思うことを、人は「孤立」と呼ぶのだろう。

分離から生まれる「孤立」を癒すのは、自分自身とのパートナーシップなのかもしれない。

いま自分の感じている感情を、素直に感じられること。

これまでの自分を認めて許すこと。

エゴだろうが影だろうが、どんな自分も愛し抜くこと。

耳を澄ませて心の声を聞く、ということ。

それができれば、心理的に「孤立」することは、きっとない。

一人は「孤独」だけれど、「孤立」しているわけではない。

自らの内面を孤立させないようにするからこそ、安心して他人とのパートナーシップが築ける。

孤独を愛せど、孤立せず。

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