大嵜 直人のブログ

人との別離で傷ついたココロは、人との出会いで癒される。私の辿ったそんな体験を、言葉にしてみたいのです。

アポなし客が教えてくれるもの 〜「シャドウの統合」から「正しさを手放すこと」まで

仕事の上で、アポイントなしで訪ねてこられるのが嫌いだった。

 

「ちょっと近くに寄ったんで」とか言って訪問されるのが、苦手だった。

 

ワーカホリックに仕事をしていた頃は「何でもコントロールしたい癖」バリバリで、仕事が予定通りに進まないのが本当に苦痛だった。

 

そんな中で、「アポなし客」は時間泥棒のように思えて、嫌いだったのだ。

 

それじゃ、会わなければいいんじゃないの?と言われると思うが、これが「いい人」の仮面をべったりと被っていた私は、必ず会ってしまっていた。

 

それなのに、

 

どうせ他のお客さんのところに来た「ついで」でしょ?私の優先順位は2番目なんだよね?とか、

 

不機嫌な表情や態度を隠せず、別れた後に罪悪感を抱えたりとか、

 

私なら絶対にアポなしでお客さんのところ行かないのに!ムカムカ!とか、

 

今書いてても笑えるような一人芝居をしていた。

 

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「目についてムカつく人」や「すごく苦手な人」は、「シャドウ」と心理学では呼ばれることがある。

 

文字通り、「影」。

 

自分の中にあるのに自覚していない「影」の要素を持っている人に、その要素を投影して見てしまうというもの。

 

そして、その見えない要素というものの多くは、「自分自身が嫌って抑圧した部分」。

 

例えば自分の中で「愚痴を言ったり、弱音を吐いたり、人に頼ったりする自分」を嫌って抑圧していると、愚痴っぽい同僚や、すぐに弱音を吐く部下や、何かと人に頼るきょうだいが、めちゃくちゃ鼻について、見ているとイライラする。

 

できれば、あまり関わりたくない人に見える。

けれども、「愚痴を言ったり、弱音を吐いたり、人に頼ったりする自分」を嫌って抑圧したのは、多くは家庭(ほとんどは親)との関係の中で、そうせざるを得なかった自分なのだ。

 

言い換えれば「シャドウ」とは、それは大切な大切な誰かを助けようとした愛からつくりだされた、「そのままでは生きられなかった自分」。

 

人に見る嫌いな部分、苦手な部分、イライラする部分が、実は自分の中にある要素なんだと認識して、それを受け入れていくことを心理学では「シャドウを統合する」と言われる。

 

要は「嫌いな人の要素も、実は自分の中にあるのかもしれない」と思うことで、自分の可能性を広げてくれる、というわけだ。

 

自分の最も嫌いな要素が、実は自分の中にあるだなんて、なかなか認めるのは難しいのだけれど。

 

でも、そうだから仕方がない。

 

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さて、ワーカホリックが過ぎて人間関係で行き詰まった私が、それを手放していく過程で、自分の軸もまた徐々に取り戻していくことができた。

 

そうすると、「いい人」の仮面をかぶらなくてすむようになる。

 

その人には、「アポなしで突撃する自由」があるように、

私にも「面会を断る自由」や「居留守を使う自由」もあるのだ、と気づくようになる。

 

それはどちらを選んでも構わない話なのだ。

 

立場変われば、私がアポなしで訪問しても別にいいのだ。

 

そのときは「会えたらラッキー!」ぐらいで行くだろう。

 

会えなかったら、「残念、また今度」くらいで、別に落ち込んだり怒ったりしないと思う。

 

だから、別に自分が会いたければ会えばいいし、忙しければ断ればいいんだ。

 

相手が時間を割いて訪問したからといって、選択権を相手に渡すことはない。

 

自分が選択権を持つ、ということ。

 

「シャドウ」を統合して一つ自由になったのかは分からないが、それができると、アポなし客も気にならなくなった。

 

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とまあ、ここまでが長い前半。

 

昨日もそんなアポなし客があったのだが、どうしても事務仕事を一区切りさせたかった。

 

私は「10分くらい時間もらえれば、行きます―」と答えて、その客も「10分くらいなら待ちます」、とのことだった。

 

私は急いで区切りをつけようとしたのだが、10分で終わるはずの仕事がなかなか終わらない。

 

10分を越えそうになり、焦りがでてくる。

相手を待たせるという、私の中のタブーが反応して「怒り」を感じる。

 

「アポなしで来てるのは向こうなんだから、待たせてもいいはずだ」

 

と、私は「正しさ」を盾にその「怒り」を収めようとした。

 

そんな感情の波の中、なかなかはかどらない仕事にようやく区切りをつけて、私は少し待たせてしまったことに罪悪感を覚えて打合せ場所に向かった。

 

そこでは、別の担当をつかまえて話が盛り上がっている客の姿があった。

 

なんだ、せっかく切り上げてきたのに!

 

そんな心の狭いことを感じたのだが、打合せが終わった後、私もまだまだ「正しさ」の呪縛にとらわれることもあるな、と気づいた。

 

「アポなしで来るのは間違っている、だから待たせてもいい」

 

という感覚は、

 

「正しくないといけない」という思い込みがつくりだす。

 

そうした思い込みは、逆から見れば、

 

「正しくなければ、周りから尊重されない」

 

という思い込みを持っている、ということだ。

 

この傾向は正誤善悪にこだわる男性の方が強いのかもしれないが、これが過ぎると結構つらい。

 

いつもいつも、「正しさ」センサーで自分を測っていないといけないわけだから。

 

生きていれば、正しくないときだってある。

 

それなら、「正しさ」基準を捨ててしまうことだ。

 

「間違っていても、大丈夫」

「正しくなくても、許されている」

「どちらでも、愛されている」

 

そう思い込んだ方が、楽に自由に生きられるように思う。

 

「正しさ」よりも、「楽しさ」を選んで生きていこう。

 

「シャドウ」、そして「正しさ」。
どうも、アポなし客はいろんなことを教えてくれるようだ。

 

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