大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」に至るまでの、記録と変遷のブログ。

じゃあ、どうしたら「絶望」せずに「希望」を持てるの? 〜親の愛を受け取る、というお話

いらっしゃいませ、「言の葉割烹おおさき」へようこそお越しくださいました。
店主のおおさきです。

 

今日は昨日の記事の続きを少し。

 

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昨日は「タブー・禁止の心理」から、「執着」すること、そして「諦めること」と「委ねること」との違いについて綴らせて頂きました。

 

「諦めること」、そして「委ねること」の違いは、心の奥底が「絶望しているか」、それとも「希望を持っているか」に依ります。

 

「人生でいくらでも失敗してもいい」

 

というフレーズでも、心が絶望していると「諦めている」になり、その本当はイヤな「失敗」がさらに頭に刻まれます。


一方で心が希望を持っていると、「委ねている」になり、失敗が失敗でなくなります。

 

そうは言うけれど、じゃあどうしたら「絶望」せずに「希望」を持てるの?

 

となりますが、私は「親の愛を受け取ったときに、人生に希望という光を灯すことができる」と思っています。

 

親の愛。
それも、特に母親からの愛。

どれだけ、それを受け取っているか。

 

母親との関係は、恐らく人と人の関係の中で、最も近く、それゆえに最もめんどくさく、だからこそ最も愛にあふれる関係です。

 

赤子からよちよち歩きの時代を経て、ランドセルを背負い、思春期を迎えて中指を立てて・・・

 

ときにそれはめんどくさく、すれ違い、受け取りを拒否したり、こじらせ、ささくれ立つこともあったと思います。

 

特に、女性の場合は同性ですから、ことさら難しくなることがありますね。

(逆に私のような男性は、父親との関係から、権威やリーダーシップに葛藤することが多いようです)

 

けれど、そこには必ず愛があります。

 

それが、自分の与えて欲しかった愛の形ではなかったかもれませんが、必ず、あります。


愛してる、と直接伝える愛もあれば、
ただ話を聞いてくれる、という愛もあるはずです。

 

転んだときに抱きしめてあげるのが愛ならば、
泣き止んで立つまで遠くから見守ることも、また愛なのでしょう。

 

あれやこれやと干渉することも愛ゆえならば、
境界線を引いて必要以上に近づかない愛もあります。

 

生まれてきてくれてありがとう、という分かりやすい愛もあれば、暴言や暴力でしか愛を伝えられないことも、ときにあるでしょう。

 

一緒に寄り添って過ごした時間が愛にあふれているならば、今生の別離も、また愛の形の一つかもしれません。


私たちは、自分が与えられてきた形で愛を表現しようとします。

 

「愛してる」という愛の表現をよくされるお母さんのもとで育った子は、
きっと大切な人に「愛してる」という表現をするのでしょう。

 

辛いときには何も言わずに抱きしめてくれる母親の子どもは、
きっと同じように愛を表現するのでしょう。

 

料理や家事をすることで愛を表現するお母さんを見た子は、
きっと同じように家事に愛を込めるのでしょう。

 

さてそう考えたときに、逆に与えられていない形の愛を表現することは、なかなか難しいと思うのです。

 

愛してるなら、ちゃんと「愛してる」と言ってほしかった。

 

私のことを愛してるのなら、信頼して放っておいてほしかった。


何してもダメ出しや否定をされて、愛されているとはとても思えなかった。


ずっと鍵っ子で寂しかった、もっと一緒にいたかった。

 

そんな想いを抱くときもあるかもしれません。

 

けれども、「お母さん」は親からどんな形で愛を受け取ってきたのでしょうか。

 

「愛してる」と言われて育っていない「お母さん」が、
「愛してる」と我が子に伝えるのは、何よりも難しいことかもしれません。

 

一人娘でずっと心配されて育った「お母さん」が、
我が子を突き放して見守るという愛の表現をすることは、思いもよらないかもしれません。

 

ずっと優秀なお兄ちゃんと比較されてダメ出しされ続けた「お母さん」が、
我が子の心配な点ではなく、長所や美点を見つめることは難しいのかもしれません。

 

経済的に不自由がないように、一生懸命働く親のもとで育った「お母さん」は、
一緒にいることよりも経済的な豊かさで愛を表現するのかもしれません。


「お母さん」もまた、愛に飢えていた一人の寂しい瞳をした女の子だったのかもしれません。


そして、
もしも。

 

もしも、そのお母さんが愛を表現するとしたら、どんな表現になるのでしょうか。


自分は愛されていないと感じた、あの「お母さん」の行動は、

 

もしかしたら、

 

愛そのもの

 

だったのかもしれません。


そして、その愛を受け取ることができると、「私は愛されていた。何が起きても、私は大丈夫。」という「希望」が芽生えるのです。

 

子どもにとって、親(とくに母親)というのは絶対的な存在です。

 

幼少期においては全知全能の神のような存在ですし、思春期ではその反動で離れたいけれど、どうしても気になる存在。

 

親が笑顔だと全てが肯定され、何も怖いものはなくなります。


いっぽうで、親からの愛情を取り違えると、世界は終わり「絶望」が残ります。

 

そして、「絶望」がもたらすものは、「諦め」です。

 

けれども、その「諦め」を癒すのは、愛です。

 

親の愛を受け取る、ということ。


そして、どんな親のどんな言動でも、愛がないということはあり得ない、ということ。

 

それを理解するために、親自身がどうやって「愛」を受け取ってきたのかを想像してみてもいいのかもしれません。

 

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今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。

親の「愛」のカタチについて、少し想いをめぐらせる時間ができましたら、幸いです。

 

どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。

 

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