大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

罪悪感の功罪 〜罪と罰は等価交換ではなくて

今日は、一昨日お話しした「無価値感」の正反対の双子ともいうべき「罪悪感」について。

この厄介な感情については私も絶賛勉強中ではありますので、書きながら整理していければと思っております。

 

昨日の「無価値感」は、「自立」と「依存」という心理的なポジションから言うと「依存」の状態の方が持ちやすい感情でした。

一方で、「罪悪感」とは文字通り「私は悪い罪を犯してしまったので、罰せられないといけない」と感じる感情で、「無価値感」とは反対に「自立」というポジションにいる方が感じやすい感情と言えます。

幸せになりたい?という問いには、多くの人が「はい!」と答えると思いますが、「罪悪感」は心の深い部分に巣くって、差し出された幸せを受け取らないように仕向けてしまう厄介なものです。

例えば、仕事に没頭してがむしゃらに休みなく働く彼氏(自立側、罪悪感)と、彼に会えない寂しさを募らせる彼女(依存側、無価値感)をイメージしてみてください。
ええ、後ろから青龍偃月刀かグングニルの槍が飛んできそうですが、ここはグッとこらえて話を進めます・・・

私、じゃなかった、彼氏が仕事に没頭して逃げるのは、自分を罰しないといけないという感情からの場合があります。

私は悪い人間だ
全ては私のせいだ
私はけがれていて、汚れている
だから、私は罰せられなければいけない
だから、私は幸せになってはいけない

こうした感覚は、日常の中で周りの人を傷つけてしまった、悪いことをした、と感じることが重なって強くなっていきます。

約束の時間に遅刻したり、彼女とケンカして傷つけるようなことを言ってしまったり、同僚の影口に同意してしまったり、友人からのメールを返し忘れて既読スルーしてしまったり、あるいは急いでいて駅で迷っていたおばあちゃんを見捨ててしまったり・・・いろんな場面で悪いことをしてしまった、と感じることで罪悪感は強くなっていきます。

そうして積み重なった罪悪感は、

自分が罰せられないために「正しさ」へのこだわりを生み、
罪を着せられないために周りに対して攻撃的になり、
また何かをしないといけないという補償行為に没頭したり、
そうしているうちに相手との癒着を生んだり・・・
といったさまざまなことが引き起こされます。

・・・とまあ、いろんな心の問題の卸問屋のような罪悪感ですが、それを癒すのは「許し」と「感謝」だと言われます。

言葉にするのは簡単ですが、これがとても難しい。
何よりも、「自分は無罪です」「自分はもう許されています」ということを認めることというのは、やはり難しいものです。

しかし、罪悪感を癒すことは私たちに多くの恩恵を与えてくれます。

人を許せるようになり、開放感にあふれ、攻撃したり守ったりしなくて済むので肩の力をぬくことができますし、自然な笑顔で人とつながり毎日を楽しむことができるようになったりするのです。

 

さて、まだまだ足りない部分はありますが、ざっくりと罪悪感という厄介な感情についてまとめてみました。

まとめながら思ったのは、「なぜ人は罪悪感を感じるのか?」ということです。

大事な友人に嘘をついてしまった。
大好きな彼氏にわがままを言って困らせてしまった。
たいした親孝行もできないうちに、両親が亡くなってしまった。
可愛い我が子と笑顔で過ごしたいのに、感情的に怒鳴ってしまった。
彼女が好きであればあるほど、自分が汚れているように感じて近付けない。

大切なものを傷つけてしまったりしたときほど、人は罪の意識を覚え「罪悪感」を感じます。

このあたり、よくよく考えてみると「無価値感」と表裏のようにも思えますし、非常に近いようにも見えます。

なぜ、そんなときに「罪悪感」を感じてしまうのか。

それは、人の持つ「愛」の裏返しなのではないでしょうか。

どうでもよいことに私たちは悩んだり、心を痛めたりしません。

けれども相手が大切な人であればあるほど、ほんの些細なことで「罪悪感」を感じ、自分を罰しようとしてしまいます。

そして、もう一つ厄介なことに、私たちの中には「罪と罰は等価交換だ」という思い込みがあります。

 誰かに傷つけられた。
 心ないことを言われた。

 それを訴えれば、謝ってもらえる。
 傷つけたその人に、罪を償ってもらえる。

 傷つけた人は、悪い人なのだから、
 謝ったり罰を受けないといけない。

私たちが子どもの頃、学校で教わったのはそんな解決の仕方ではなかったでしょうか。

ところが不思議なことに心の世界では、それは真理ではありません。

誰かに傷つけられたと感じたとして、その相手を誤らせることや罰を受けさせることができたとします。

いっときは胸のつかえが取れたり、気が晴れるかもしれません。

けれども多くの場合において、それは時が経つごとに「相手を罰した、攻撃したという罪悪感」を抱えるようになり、確実に心を蝕んでいきます。

つまり罪に対して罰を与えるのは、被害者と加害者のポジションが入れ替わるだけなのです。

(繰り返しになりますが、これは心の中のお話であって、社会的秩序のために民法や刑法が存在することとは別の次元でのお話です)

もしもほんとうに「罪悪感」を癒したければ、罪に罰を与えるのではなく、「許し」と「感謝」が必要ということになるのでしょう。

そうすることで、

自分を責める
 →それを外界に投影して相手を責める
  →相手を責めてしまったことで、さらに罪悪感を抱える
   →大きくなった罪悪感で、さらに自分を責める
    →最初に戻る、エンドレス・・・

といった負のスパイラルから抜け出すという、大きな大きな恩恵が得られるわけです。

被害者も加害者もつくらない、ということ。
そこに善も悪も罪もなかった、ということ。

許しは相手のためにではなく自分自身のためにする、ということ。

そして、相手を傷つけてしまったと思っていることも、自分が傷つけられたと思っていることも、実は同じ「愛」という源泉から引き起こされる幻想に過ぎないのではないでしょうか。

「罪悪感」の深さは、愛情の深さの裏返しと言えます。

そんなに傷つかなくても、大丈夫です。
そんなに傷ついてしまうのは、あなたが深い愛を持っているから。
あなたは、もうずっと許されていますから。
もう、大丈夫です。

 

私もまだまだこの「罪悪感」については向き合い、癒している最中ですので、なかなかまとまりづらいブログになってしまいました。

けれども、書くことでまた一つ整理できたように思います。

今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。

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