大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

アバタもエクボの時代を越えて 〜パートナーシップに寄せて

いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。

今日はパートナーシップについて、少し綴ってみたいと思います。

恋人であれ夫婦であれ、他人との親しい関係は長くなればなるほど難しいもので、私も勉強中です。

そして、「他人は自分を映し出す鏡」とはいたるところで言われる至言ですが、パートナーほど自分の姿を正確に映し出す鏡もないかと思わされます。

ただ書くことは整理することでもありますので、少しパートナーシップについて綴ってみたいと思います。

 

アバタもエクボの時代があり、周りから「理想的な二人」と言われ、そのまま年月を経て対等で親密なパートナーシップに持っていける方はすごいと思う。

ただ多くの関係が、対等な関係よりはそれぞれがそれぞれの「役割」を担いだす。

人と人の関係で言うなら、自立と依存。
リーダーシップと、フォロワーシップ。
感情を切る側と、感じる側。
惚れられる側と、惚れる側。
問題を見つける側と、問題を解決する側。
暴君と、メンヘラ。

それぞれの役割に落ち着くと、やがて関係は固定化して枯れていく。

そしてお互いがその役割を演じきったとき、関係は逆転する。

雪解けのひとしずくが徐々に徐々に溜まっていき、ある日突如として雪崩を引き起こすように。

積み重ねた時間の分、それまでのダブルスコア以上に立場が逆転する。

依存の極みで、堰を切ったようにあふれる感情の波間に木の葉のように揺蕩うメンヘラと、自立の権化で、相手を歯牙にもかけず圧政を敷く暴君のように。

今まで感じていたことを入れ替えてお互いが感じるようになるのだが、これがまたえげつない。

ああ、今までこんなことを感じていたのか、と。

さんざんっぱらお互いに抵抗してみたり、コントロールしようとしてみたり、暴れてみたり、執着したりしてみたり、するのは、本気でしんどい。

もういいやってなったりもするんだけれども、そう簡単には問屋が卸さない。

手放そうとしている執着は、実は相手への執着ではなくて、変わりたくない自分への執着だから。

で、これを感じていると、あるとき相手への執着が「ふっ」と消える地点に到る。

凸が出っ張っているから、凹を必要としていたけれど、〇になって必要でなくなる点がくる。

ようやくそこにきて、どんなパートナーシップを歩くか、お互いが「自主的に」選択できる地点に達するのだと思う。

・・・とまあ、そんな感じがパートナーシップのロールモデルなように思うのだけれど、ひょっとしたら、いや恐らくここからがようやくパートナーシップの歩みの始まりなのかもしれない。

結局、パートナーシップに向き合うとは、自分に向き合う、ということなのだと思う。

そして、自分に向き合う、ということはパートナーの有無にかかわらず、確実に人生を豊かにしてくれる。

 

アバタもエクボの時代、

彼の優しさに惹かれたはずなのに、気が付けばそれが優柔不断に見えて何だか腹が立ったり、
同じように彼女の大らかな性格に惹かれたはずが、時が経てばそれがズボラに見えてイライラしたり・・・

どうも人は、パートナーとの関係が長くなればなるほど「好き」だった理由と全く同じ理由で、その人を「嫌う」ようになるようです。

パートナーとの関係性が逆転するときに、その関係の危機が訪れると言いますが、まさにそういうことなのでしょう。

そこで諦めることも、我慢することもできるのですが、そこで感じるものに目を向けてみることは、確実に人生を豊かにします。

その感情を感じる奥底には、今まで抑えつけて封印してきた自分自身のカケラが眠っている宝庫であることが多いようです。

きっとその宝庫を開けることができたら、その「嫌い」な理由と全く同じ理由で「好き」に戻っていくのでしょう。

それは昨日お話しした成長の螺旋階段のように、何度も何度も繰り返しながら、パートナーシップを高みに昇華させてくれるようです。

 

今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。

週中でぐずり気味の天気のようですが、この時期の長雨は「菜種梅雨」と呼ばれ穀物に実りをもたらす雨になるようです。

そんな雨の音を楽しみながら、どうぞごゆっくりお過ごしください。

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