【言の葉割烹おおさき】へようこそ

人との別離で傷ついたココロは、人との出会いで癒される。私の辿ったそんな体験を、言葉にしてみたいのです。

おおさきさん、それはあなたの問題なのですよ

私がこの割烹で言の葉を綴るきっかけとなったご縁がありました。

以前、こちらの言の葉でご紹介した、作家・講師・カウンセラーの根本裕幸さんとのご縁です。

 

nemotohiroyuki.jp

 

今日のタイトルですが、初めて根本さんにお会いしたセッションで手帳にメモした言の葉なのですが、読み返していてふと目に止まりました。

ブログで記事を読んだり直接お話を伺っていくうちに、この言の葉は二重の意味を持つように思えますので、今日はそれについて書いてみます。

 

 

一つは、その問題の原因をつくっているのは私である、ということ。

もう一つは、私自身が問題にしている、ということ。

 

 

誰しもが、生きていくうちに自分が不快と思う状態に陥ります。この状態を「問題」と定義するなら、人は問題を認識すると、それを解決しようとアプローチし始めます。

 

私も以前お話ししたように人間関係で問題を抱え、徐々にすべてがうまくいかなくなり、問題を認識しました。

 

私が採った最初のアプローチは、正しさを主張して他責にすることからでした。

 

私は正しい、相手が間違っている。

正しさという鎧をまとった被害者意識満載の私は、不快な状態をどうにかしようと相手を、周りを、外界をコントロールしようとしました。

 

ご想像のとおり問題は解決するどころか、状況を悪化させるだけでした。

 

なぜ、私が。

正しいことをしているはずなのに。

頑張っているのに。

我慢しているのに。

報われない。

 

そんな絶望的な感情を味わい尽くしたあと、問題の解決には全く逆のアプローチが必要だと、根本さんの言の葉で気づかされました。むしろその想いが、問題の状況をつくっている。

 

原因は、私にある。

問題を抱えたしんどい状態にはえげつない話なのですが、アプローチの転換の一歩目はそれでした。ただ難しかったのは、過剰に被害者意識があったり自分と他人の境界線が引けていないと、過剰に自分を責めてしまう要因になる点でした。

 

本当に難しいのですが、その認識が腑に落ちると、その原因を探して、潰していくというアプローチが採れるようになります。自分の状態の浮き沈みを、周りの他人が握っているという依存と呼ばれる立場から、自らその状態を変えていこうとできる自立の状態への移行です。

 

正しさよりも、楽しさを

無理に頑張るよりも、息抜きしながら

我慢するよりも、わがままになってみる

報われる、報われないという判断基準を手放す

 

いろんなアプローチができるようになります。

昨日の禁煙の言の葉でお書きしたとおり、方法は無限にあります。

 

それが、「私の問題」として認識することの一つ目の意味です。

 

 

そしてもう一つの意味は、

問題は私自身が問題にしている、ということ。

言い換えると、問題を問題としているのは、「私」であり、その「状態」ではない、ということ。

 

借金がたくさんあっても、それについて悩まない人も世の中にはいます。

持病があったとしても、問題と思わない人もいます。

当たり前の話ですが、車の運転が下手でも、パートナーがいなくても、辛いものが食べられなくても、野菜が嫌いでも、運動神経が鈍くても、イケメンでなくても、問題と思うかどうかは人それぞれです。

 

つまり、いま問題を感じる地点から一歩離れて外から見るメタな視点を持てると、問題を問題と思わなくなります。

 

え?そんなことあったっけ?

 

というような、忘却こそが問題の本質的な解決のように思います。

そのためには、えげつないくらい自分と価値観の異なる人に会うことや、旅行や湯治といった非日常の空間と時間に少しのあいだ身を置いてみることが有効なのでしょう。

 

私自身が問題にしていること。

それが「私の問題」として認識することのもう一つの意味です。

 

私はいまも「自分の問題」として認識し、忘却できるように向かっているところです。

 

 

さて、もう今日で霜月も終わりです。気忙しい師走もすぐですね。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。