【割烹おおさき】へようこそ

ようこそお越しくださいました。当店の言の葉で、どうぞごゆっくりお楽しみください。

言の葉にすることの難しさ

週末の雨で、下弦の月は厚い雲に隠れて見えませんね。

 

ここのところ、毎週末雨が降っているような気がします。お出かけを予定されていたら残念ですが、おてんとさまには逆らえません。そういう時期なのでしょうね。

 

さて昨日に引き続いて、少し言の葉について考えてみます。

 

・・・まあまあ、いつもは叙情的に書いてますので、たまには左脳的な言の葉もいいんじゃないでしょうか。といっても、着地するところはいつも同じですけれど・・・世界や言の葉を見つめる視点の一つに頂ければ幸いです。

 

今日の言の葉は、こちらです。

 

 

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こうして投稿するようになって、文章を書く機会が増えた。

 

もともと言葉や文章は好きな方だったが、書いていてどうしても伝えられない情感や情景が、確かにある。

 

言葉ですくい取れないもの。

言葉にした瞬間に抜け落ちてしまうもの。

 

世界を切り分け分断するという、言語の持つ本質がそうなのだと思える。

それに対して音楽や絵画、芸術がその隙間を埋めるものだと私は漠然と思っていた。

 

けれど、こうして文章を書くにつれ、決してそうとも限らないと思うようになった。

 

マティスが彼の教え子に、

 

「こんなに大きなメロンがあってね!」

と話す友人の両手が描く円にこそ、デッサンの本質がある

 

と語ったように、言葉だろうと絵画だろうと、表現できることと、表現したいことそのもの間にはやはり隙間がある。

 

その空隙は恐らく未分化の世界そのもので、サルトルが「嘔吐」と呼んだ生々しい存在そのものなんだと思う。

 

 

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2017.5.3

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20世紀を代表する芸術家、アンリ・マティス

「色彩の魔術師」と称されるほど多彩な色使いを特徴とする絵画を多く残しました。大胆な色彩も素晴らしいのですが、私がマティスの絵画で惹かれるのは、その輪郭線です。未分化な世界から、自らが表現したものを切り取る、力強い線。

 

かつてそのマティスは教え子にデッサンの講義をする際に、

 

人がメロンのことを話すとき『こんなに大きなメロンがあってね!』と空中に両腕で  丸い線を描いてみせる。

そこに二つの線が、同時に現れる。

それらの線が囲む丸い空間が、話している人の前に現れる。

 

それがデッサンだ。

一本の腕を使ってそんなふうにデッサンせよ」

 

  前田英樹

  「絵画の二十世紀 ~マチスからジャコメッティまで」

 

と語ったそうです。

確かにそんなふうに身振りをもって話されたら、目の前にあの表面のでこぼことしたメロンが現れ、その肉感とみずみずしい芳醇な香りが漂ってくるようです。

 

こんなに大きなメロンが!

こんなに小さな虫が!

こんなに美しい雲の形が!

 

マティスが伝えたかったのは、絵画の基本であるデッサンの根源は、こうしたこの世界に対する驚きをともなった身振り手振りが描く空中の線だということなのかもしれません。それは、そのままの世界を切り取り表現する線です。

 

晩年のマティスは「切り絵」を好んで製作したそうです。世界を切り取り表現することを、「色紙」と「はさみ」を使った切り絵に可能性を見ていたのでしょうか。

 

 

さて、一方のジャン=ポール=サルトル

20世紀のフランスを代表する知の巨人です。キルケゴールニーチェからの流れを汲んだ彼の哲学は、「無神論実存主義」と呼ばれました。

 

「実存は本質に先立つ」

「人間の運命は人間の手中にある」

 

という遺された言の葉からも分かるように、それまで価値を持つとされていた「神」や「魂」といった本質ではなく、「人間」というすでに存在している現実を思考の中心に置いた哲学といえるでしょう。

 

様々な価値観が交錯していく時代において、絶対的な神が存在しない中での人間の生き方を模索し続けました。その後の哲学のみならず、演劇や文学といった分野にも大きな影響を及ぼしました。

 

今日の言の葉の中にある「嘔吐」はサルトルの代表的な小説ですが、その中で主人公は街路樹として植えられていたマロニエの根から出たゴツゴツしたコブを見て、吐き気を催します。そこに存在そのものの姿を見た、と。

 

存在するとはたんにそこにあることだ。・・・いたるところに無限にあり、余計なものであり、・・・それは嫌悪すべきものだった。・・・私は叫んだ。「なんて汚いんだ。なんて汚いんだ。」

私はこのべとついた汚物をふりおとすために体をゆすった。けれども汚物はしっかりしていた。何トンもの存在が無限にそこにあった。私はこのはかりしれぬ倦怠の底で息の詰まるおもいだった。

 

ジャン=ポール=サルトル「嘔吐」

白井浩司訳

 

マロニエの根っこを見て吐き気を催す、と書くとちょっとアブない人のように見えますが、こんな情景を想像してみてはいかがでしょうか。

 

 

「失恋で胸が潰れそうになってとぼとぼと歩いていたが、ひとしきり泣いてまわりを見渡すといつもと何一つ変わらない風景があって愕然とした」

 

「ベンチにぼんやりと座っていたが、ふと気づくと目の前の世界が圧倒的な存在感を持って迫ってきてびっくりした」

 

 

そんなような情景なのかもしれません。 

 

ふとした瞬間に垣間見える未分化で圧倒的な「存在そのもの」は、常に未来へと自らを投げかけ切り開いていく存在の私たちにとっては、ときに吐き気を催すものだ、という面白い視点です。

 

その「存在そのもの」こそ、マティスがデッサンで切り取り表現したかったもののように私には思えます。

 

 

さて、そうした「存在そのもの」を私たちはどこまで表現できるのでしょうか。

 

写真に写る美しい花束

こんなにも大きなメロン

どうしようもないこの悲しさ

息を呑む絶景

 

そうしたことやものの前に、言の葉やデッサンは無力にも思えます。

けれど、私は言の葉の力を信じています。

 

伝えたい、という思いがあること。

そうした気持ちの乗った言の葉は、必ず受け手の心に届くと信じています。

話されたものであっても、書かれたものであっても、当店のようにウェブ上の信号であっても。

 

 

・・・ええ、何となく予想はしていましたが、今日もとりとめもないお話になってしまいました。お付き合いいただきまして、ありがとうございます。

 

 

週末の夜です。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。