夜も更けてきました。
下弦の月が綺麗ですね。月を弓に見立ててついたこの名前が、私は好きです。
名前というのも、不思議なものですね。
今日お召し上がりいただいているブリにしても、成長とともに名前が変わるのは有名な話です。関西では、
ツバス、ハマチ、メジロ、ブリ
というように名前が変わるため出世魚と呼ばれますね。
以前に名前についての言の葉をお出しした際は、私の名前という固有名詞についてでしたが、ブリ、コスモス、コオロギ、ボールペンといった一般名詞もまた不思議な力を持っていますね。
今日はそんな言葉はいかがでしょうか。
色を指す語において、日本語と英語には微妙な差異がある。藍色とindigo blue、azureの違い。
もっと極端なところでは、アフリカのリベリアで話されているバッサ語においては白と黒しか色彩を指す語がないという。
もし私が日本語を母語としなかったら、この世界はまた違って見えているのだろうか。
そう思うと、なかなか当たり前の風景も美しく、また儚い。
2017.5.27
「いぬ」と呼ばれているものが先に存在していて、私たちがそれに「いぬ」と名付けた。
普通に考えるとそうですよね。
春になると淡いピンクの花を咲かせる木を「桜」と名付けた。
夏になると木に捕まって騒がしく鳴く虫を「蝉」と名付けた。
秋になると咲く可憐な小さな花を「コスモス」と名付けた。
冬になると見られる軒下の凍った水滴を「つらら」と名付けた。
・・・というように。
名前に対応するものが、それ自体として存在しているというこの考え方は、「実在論」と呼ばれ、古くはギリシアの哲学者プラトンにその起源を見ることができると言われます。
これに対して、1857年にスイスに生を受けたフェルディナン・ド・ソシュールは、異なる言語に対しての見方を提示し、その後の言語学や哲学に大きな影響を与えました。
彼は有名な「シニフィアン」・「シニフィエ」という概念を提示します。
あ、その言の葉を聞いて、東京は世田谷のベーカリーを思い浮かべた方は、パン好きな方ですね。志賀勝栄シェフの「パンの哲学」が詰まった珠玉のパンたちは、いずれも生命力にあふれています。中でも「パン・オ・ヴァン」を初めて頂いたときは、その濃縮された生命力に感動しました。
こちらのお店ですね。
志賀シェフもソシュールからお店の名前を取られたのでしょうか。
・・・どこまでお話ししましたでしょうか、横道に逸れすぎですね。
ええと、「シニフィアン」と「シニフィエ」の概念ですね。
「いぬ」という言語表現あるいは記号が「シニフィアン」、「いぬ」という言語や記号が指す対象そのもののことを「シニフィエ」とソシュールは規定します。
そして、言葉は常に「指される対象(シニフィエ)」と「指すための表現(シニフィアン)」が対になる「シニフィアンーシニフィエ」の構造を持っていると言います。そして、この「シニフィアン」と「シニフィエ」を結びつけるものは恣意的である、とも。
たとえば今日の言の葉の中で出てくるバッサ語においては、色を区別する語は二つしかないそうです。そうすると、同じ「虹」を見ていても、日本語を母語とする人には7色に見え、バッサ語を母語とする人には2色のグラデーションに見えるのでしょう。
同じ対象に対して別の見方が生まれるということは、「客観的に存在する事物はない」という帰結をもたらします。つまり、人の観点よりも先に事物がそれ自体として存在しているのではなく、人の観点が事物をつくっている、という視点です。これは古くギリシアから続く実在論に新しい視点を与え、その後の現代思想に大きな影響を与えました。
あれ?どこかで聞いたような気が・・・?
そうですね、月曜日に「コウテイペンギン」の言の葉でお話しした「見たいように世界を見る」と同じですね。
時代の転換というのは、複数の分野で同時期に起こります。
哲学、産業、科学、文学、宗教、芸術・・・それぞれの全く異なる分野で起こった転換は、俯瞰してみると同じことを表現していた、ということがあります。
ソシュールが言語学の分野で開いた新しい視点は、量子力学が主張する観測者問題とも同じ地平にあるように思えますし、また心理学の世界における「感情が先、出来事は後」の鉄則にも通じるように見えます。
「見たいように世界は見える」
そんなことが常識になる時代の転換点に、私たちは立っているのかもしれません。
同じ20世紀を生きた聖人、マザー・テレサの聖句も、同じことを表現しているように見えます。
最後に振り返ると、あなたにもわかるはず。
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。
さて今日はいろんなところにお話しが飛びすぎましたが、こんな日があってもよいですね。
どうぞ、ごゆっくりおすごしください。