【言の葉割烹おおさき】へようこそ

人との別離で傷ついたココロは、人との出会いで癒される。私の辿ったそんな体験を、言葉にしてみたいのです。

与えられたものは、遠慮なく受け取ろう ~中津川からのトウモロコシが教えてくれたこと

いらっしゃいませ、「言の葉割烹おおさき」へようこそお越しくださいました。

店主のおおさきです。

 

今日は「受け取る」ということを、中津川から届いたトウモロコシにまた教えて頂いたお話を。

 

_________________

 

中津川からトウモロコシが届いた。

一本茹でてそのままかじっただけなのに、


めちゃくちゃ甘い。


ほんで、ちょっとだけよ・・・って


バター熱したフライパンに


醤油をほんの少し垂らして、


ころころコロコロ転がす。


少し焦げ目がついたら、最強に美味い。


旬のものはなんでも美味しいけど、


このトウモロコシは別格だった。


 
御礼に同じくらい価値のあるものを、送らないと・・・


とか考えないようにしよう。


ただ、いまこのトウモロコシを味わうだけでいい。
 


ほんで、私は書くことが好きだから、


気が向いたら手紙を書こうと思う。


気が向かなければ、次に中津川に行ったときに伺おう。


好意を遠慮なく受け取る、というのは案外に難しいけれど、


自分が好意を送ったときに、相手がどんな反応をしたら嬉しいか、


をイメージしてみると、結構楽に受け取れるのかもしれないと教えてくれた、


立秋過ぎに中津川から届いたトウモロコシ。


どうもごちそうさまでした。
とっても美味しかったです。

 

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2018.8.10

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「与えること」と「受け取ること」については、以前こんな記事を綴らせて頂きました。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

「与えること」は、実は「受け取ること」と同義です。

ということは、全力で「受け取ること」は相手に「与えること」と同じです。

 

何かを与えるということは、与えさせてもらうこと。

何かを受け取るということは、受け取ってあげること。

 

その「何か」の言葉のところに、トウモロコシを入れてもいいですし、愛情や感謝といったものを入れてもいいですよね。

 

けれどこれが「自己評価」が低かったり、あるいは「自立」をしすぎていると、なかなか受け取る」ことが難しくなってしまうのですね。

 

周りの人が全力で与えれくれたプレゼントを、

いえいえ、私のような者に、めっそうもない・・・

私なんかに、こんなにして頂いて申し訳ない・・・

といった具合に、受け取ることに抵抗や罪悪感を感じてしまったり、

 

あるいは、すべて自分でやらないといけない、

他人の助けを借りてはいけない、

といった「自立」に心が振れすぎていると、贈り物や仕事のヘルプの申し出とかを断りたくなってしまいます。

 

そうした状態だと、なかなかうまく循環していかないのですね。

次に自分が何かしようとしたときに躊躇してしまったりして、うまく与えられなかったり。

 

自分の周りの素敵な人の好意を、「ありがとう」と受け取るだけでいいのです。

自分が喜ぶことが、周りの人の喜びなのですから。

そして、自分にはその価値が十分にあるのですから。

それに、降参しましょう。

 

受け取ることは、与えること。

それは最も周りの喜ぶ与え方の一つなのかもしれません。

 

中津川からのトウモロコシも、全力でこの時期だけの甘みを味わって、楽しませて頂きました。

 

そして、その味を思い浮かべながら、トウモロコシをお贈り頂いた方に一枚の絵葉書を書いて送ってみました。

それを書いている時間は、とても楽しくて、与えることと受け取ることが循環していたように思います。

 

そんな風に、差し出されたものを受け取れたら、また世界は楽しくなるように思うのです。

 

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今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。

どうぞごゆっくりお過ごしください。

 

 

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終戦の日に寄せて

今日は終戦の日に寄せて、少し綴ってみたいと思います。

 

最後の将軍・徳川慶喜による大政奉還が1868年。

今からちょうど150年前。

 

30年で一世代とすると、今の私たちからだいたい5~6世代前。

昔はもう少し早産だったと考えても7~8世代をたどると、江戸時代の記憶に行き着くのではないでしょうか。

 

私のおじいちゃんの、おじいちゃんの、おじいちゃんあたりでしょうか。

 

その頃は300年に渡る泰平の江戸時代から黒船の来航、そして国内を二分する戊辰戦争という内戦が起こっていました。

 

そこから本格的な国外との戦争の時代の幕開けとなる日清戦争が1894年。

いまから120年ほど前に、眠れる獅子と世界から恐れられた清と戦争が始まります。

 

そして当時の超大国・ロシアと開戦した日露戦争が1914年。

ようやく大正時代、ここで100年ほど前の時代になりますね。

 

100年というと、3~4世代。

私の祖父母の親類も、日露戦争で亡くなっています。

 

そこから日中戦争・太平洋戦争と戦線が拡がっていき、やがて広島・長崎への原爆の投下、ポツダム宣言による終戦が1945年、昭和20年。

いまから73年前。

 

私の祖父は戦争の話を積極的にはしなかったのですが、日中戦争で兵隊として満州に出征したという話を一度だけ聞いたことがあります。

そして私の両親が産まれたのは、終戦のすぐ後でした。

 

考えてみれば、戦争が終わってからまだ100年も経っていないのですね。

そう思うと、私たちの両親、そして祖父母の記憶をたどっていくと、必ずこの悲しい時代の記憶にたどり着きます。

 

よく、親の愛を受け取る、というお話をここで綴らせて頂くことがあります。

 

私たちに絶大な影響を持つ親との関係。

その親の愛と私たち自身が欲しかった愛の形が違うと、悲しいすれ違いが起こりますし、逆に愛されていたという実感は私たちの生きる土台になります。

 

しかし、人間の思考は時代背景とテクノロジーに支配されます。

(支配されない思考と行動を続けられる人を、天才と呼ぶのでしょう)

 

おそらく私の祖父母の世代の社会は戦争という極限状態にあり、空襲や徴兵といった言葉や、生きるか死ぬか、という肌感覚のあった時代だと思うのです。 

 

その中で子どもを産み、育ててこられた。

今の社会にあって当たり前のものが、ほとんどないその時代に。

 

毎日が必死だったと思うのです。

自分と、家族の身を守って生活していくだけで。

 

私の親の世代は、そんな両親を見て育った世代です。

そして私の両親が子育てをした時代は、高度経済成長と呼ばれる時代の夜明け頃。

きっと、豊かさを求めて日々一生懸命働いて子育てをしていたのだと思います。

 

食べもの、今日寝る場所、お金、多方面からの情報が普通に「在る」いま現在という時代と、そうではない時代。

そうした時代の価値観のギャップがすれ違うことがあるのは、ある意味で当然のことだと思うのです。

 

死ぬほど頑張ってお金を稼ぐ必要があった時代に生きた人は、どうあってもこの子を食べさせていくことが最上の愛情の表現になったのかもしれません。

その結果として、子どもと一緒にいられなかったり、我が子に愛していると伝えられる時間すら持てなくて、寂しい想いや満たされない想いをする子もいたのかもしれません。

 

人が抱える心の問題の多くは、親との関係性から生まれると言われます。

 

けれども、先ほどのお話しではないですが、今の時代を生きている人から2~3世代さかのぼると、必ずこの日本の国が経験した途方もなく悲しい経験にぶち当たります。

 

もしかしたら、そうした親との関係性を難しくしているのも、その途方もなく悲しい経験が大きく影響しているのかもしれません。

私たちの親の親の世代こそ、その悲しみの真っ只中を生きてきた方たちなのですから。

 

そう考えると、七十数年前に戦争が終わったとはいっても、まだ悲しみの記憶の連鎖は続いているともいえます。

 

だとするなら、私たちの心の中の平安を保つことこそ、

この国が経験した途方もなく悲しい戦争を終わらせる、ということなのかもしれません。

 

今日はそんな両親や祖父母が生き時代に想いを馳せながら、一日を過ごしてみたいと思います。

 

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やはり心に浮かんだことは、何でもやるべきだと思ったお話し ~愛された記憶の海に寄せて

いらっしゃいませ、「言の葉割烹おおさき」へようこそお越しくださいました。

店主のおおさきです。

 

お盆らしく、奥さんの実家に帰省しておりました。

 

見慣れない街や道を走るのが楽しく、ランニングをしながらいろいろな道を走ってみるのが帰省したときの日課になっています。

 

ただ、すでに何度も走っているため、主に東側の「海コース」と西側の「山コース」に分かれるのが分かってきました。

 

今回の帰省でも朝の時間帯に走ることができまして、夏らしく「海コース」を選択してみました。

 

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「海コース」の途中には、こんな素敵な雰囲気の神社があります。

逆川神社という名らしいのですが、いつもひんやりと落ち着いた空気の境内を通って参拝していきます。

この日はクマゼミの大合唱がすごかったです。

 

このあと、大通りを挟んで東へと走っていくと、お次はこんな神社が。

 

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八雲神社、という名の神社です。

こちらは落ち着いた優しい雰囲気の神社。

こちらにも参拝して、東へと走ります。

 

道がどんどん細くなり、民家の脇を通って走っていくと、

 

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こんなけもの道?に出て、その道をそのまま道なりに走っていくと、

 

 

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こんな感じの海岸へと出ます。

ここはいつ来てもほとんど人がおらず、まるでプライベートビーチのような感覚におそわれます。

 

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誰かが歩いたような跡はあるのですが、見渡す限り誰もいません。

以前には海釣りをしている方を見かけたのですが、この日は誰もいませんでした。

 

この夏の盛りでも海水浴客がいないということは、水質がそんなによくないのかもしれません。

素人目にはわかりませんが・・・

 

さて、この海岸を見ながら少し走っていたところ、ふと

 

素足で海に入ったら、気持ちいいただろうなぁ

 

という気持ちが浮かんできました。

 

けれどこの日はランニングで、かつ「海コース」を選ぶのも決めていなかったため、持ち物はスマホと小銭のみ。

サンダルはおろか、タオルすら持ってきていません。

 

人っ子一人いない海岸、海の家や水道などもあるはずもなく、ランニングシューズが砂だらけになるのもいやだし、かといって先ほどのけもの道を裸足で歩いて戻るのも痛そうだし・・・

というようなネガティブな思考が浮かぶわけです。

 

それでも、気持ちよさそうだからいいかな

 

少し逡巡しましたが、そんな声に従ってランニングシューズを脱いで、靴下を脱いで、素足を波打ち際に浸してみました。

 

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ランニングで火照った足先が、ひんやりと気持ちよい。

波が引いていく度に、砂が足の指の間を通り抜けていく感覚が心地よい。

 

いつしか、私の心は数十年前に家族で訪れた海岸に飛んでいた。

あのときの海水の冷たかった感覚。

塩水の匂い。

愛された、記憶。

 

人の記憶というのは曖昧なもので、言葉や数字などの記憶は不明瞭だが、こうした感覚や匂い、味といったものは何歳になっても、そのままの強烈な記憶のまま保存されている気がします。

 

やはり、裸足で土に触れるのは、いいものです。

 

以前にブルーベリー農園を手掛けておられる方が、

 

素手で土や植物を触ることは、とってもいいこと。

「アースする」って言葉があるけれど、アース線をつなぐように大地とつながることができる。

 

というようなお話を伺って、なるほどな、と感じたことを思い出します。

足も同じで、普段は靴を履いてなかなか直接大地と触れ合う機会がありませんが、こうして裸足で歩いたりすることは、大切なことのように思うのです。

それは植物などと同じで、何かとつながりやすくなる、ということかもしれません。

 

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そんなこんなで、満足げな表情で一枚。

やはり心に浮かんだことは、何でもやってみるべきなんだな、と改めて感じたランニングでした。

 

砂まみれになった足を乾かしているうちに、カンカン照りになってぼーっとしてきて危うく熱中症になりかけたり、

帰り道のけもの道では、スズメバチと思わしき大きなハチに追いかけられてランニングどころか全力疾走をさせられましたが、

 

なかなか楽しい時間でした。

また季節を変えてこの海を訪れたいと思います。

 

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今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。

 

 

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必要なものは、必要なタイミングで ~名古屋・中村公園「豊国神社」訪問記

いらっしゃいませ、「言の葉割烹おおさき」へようこそお越しくださいました。

店主のおおさきです。

 

先日、名古屋市中村区の中村公園にあります、かの豊臣秀吉公を祀った「豊国神社」を訪れましたので、その訪問記を。

 

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「豊国神社」は地下鉄東山線中村公園駅から歩いて10分ほど。

 

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駅を出た五叉路の交差点が参道の入り口らしく、名物の「中村の大鳥居」がそびえ立ちます。

 

実は、私はこの中村公園駅の近くに以前7年ほど住んでいたことがありまして、そのときは毎日のようにこの巨大な鳥居を見ておりました。

 

改めて見ると、大きですね。

高さ24.2mだそうです。

 

ちなみに日本で最も高い鳥居は、以前こちらの熊野三山訪問記でご紹介した、熊野本宮大社の大鳥居。

 

過去、現在、未来をめぐる旅 ~熊野三山 訪問記 - 【言の葉割烹おおさき】へようこそ

 

写真で見るとそれほど感じないのですが、こちらも実際にくぐってみると、とんでもなく大きかったです。

 

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その「中村の大鳥居」から豊国神社への参道は、こんな感じです。

毎月、9のつく日には朝市が開催され、多くの店でにぎわうそうです。

 

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こちらが正面の鳥居。

大鳥居の赤色と違って、渋い朱色の鳥居。

画面では見づらいのですが、鳥居の上の部分に豊臣秀吉の家紋が金であしらわれています。

 

少し駅から歩いてきただけで、こんな静かな空間の場所があるのが不思議です。

 

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何とも趣のある手水舎。

上の柱のところには、これまた秀吉公のシンボルの一つといわれる「ひょうたん」が飾られていました。

 

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そのまま参道を歩いていくと、すぐに本殿に。

対の提灯にも、秀吉公の家紋が入っています。

 

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本殿で参拝をすると、その横には秀吉公の肖像画が飾られていました。

日本史の教科書で見た、あのお顔。

 

 

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本殿のすぐ横には、秀吉公の生誕の地を記念しての碑がありました。

この日も35℃超えの猛暑日だったこともありますが、この中村公園の中は人もそれほど多くなくゆったりとした時間が流れていました。

 

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そのまま中村公園の東側にある、「常泉寺」に足を伸ばします。

 

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境内には、秀吉公お手植えの柊が。

 

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秀吉公生誕の産湯の井戸には、やはりシンボルの「ひょうたん」が飾られていました。

 

歴史を大きく動かした、かの秀吉公を育んだ土地と水。

一通りの日本史は習いましたが、こうした郷土の歴史を実地で学ぶというのは、楽しいものです。

 

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もう一つ、中村公園の東側にあるのが、かの加藤清正公ご生誕の地とされる「妙行寺」。

せっかくなので、こちらも訪れてみました。

 

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境内にある、清正公の銅像

 

400年ほど前には、こうした甲冑を着た侍たちが合戦をしていました。

それが今は、こうしてその銅像スマートフォンで撮影してブログにアップしている。

そう思うと、なかなか感慨深いものがあります。

 

たとえば、いまから100年間というと日本がロシアと戦争をしていたころ。

私の曽祖父の世代です。

 

その4倍の時間。 

はたして、400年という時間は、長いのか、短いのか。

 

蝉時雨の聞こえる境内で、汗を拭いながらふとそんなとりとめもないことを考えていました。

 

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境内には、こんな菩薩様も。

 

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私の背より大きな立派な献灯。

 

4時過ぎに訪れたのですが、夏の夕暮れは何だかさびしいですね。

 

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この「豊国神社」ですが、私は以前にこの中村公園駅の近くに住んでいたとは、すぐ近くだったにもかかわらず、一度も訪れたことがありませんでした。

7年も住んでいながら、です。

 

その当時は感情を押し殺していた時期で、心の余裕がなかったのかもしれません。

 

あるいは、近いところほどあまり行かない、というものなのかもしれません。

 

けれど、今回訪れることができてよかったと思います。

 

訪れる場所、出会う人、一冊の本、聴く音楽・・・

きっと、必要なものは、すべて必要なタイミングで与えられるものなのでしょう。

 

それを信頼することを、「プロセスを信頼する」と呼び、自分自身の人生を肯定する大きな鍵なのかもしれません。

 

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今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。

誕生日に想う、生と死への眼差し。

いらっしゃいませ、「言の葉割烹おおさき」へようこそお越しくださいました。

店主のおおさきです。

 

私事ではございますが、おかげさまで今日38回目の誕生日を迎えました。

ありがたいことです。

 

私は夏の暑い盛りのこの時期に産まれたのですが、年々この時期になると生と死というものを見つめる時間が長くなってきたように思います。

 

私の好きな蝉時雨が聞こえる8月。

蝉の大合唱を聞きながら、蝉の抜け殻や力尽きて息絶えた蝉を見るたびに、生命の輝きと儚さの双方に想いを寄せる時間が増えます。

 

8月に入るとすぐに立秋がきます。

永遠に続くかと思われた夏の盛りの中にも、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえたり空の色が変わってきたりと、日に日に秋を見つけるようになります。

永遠に続くものなど、何もないと改めて思わされます。

 

そして長崎と広島の悲しい記憶の日がやってきて、終戦の日に想いを馳せるようになります。

この日本という国が戦争をしていた時代から、まだ100年も経っていないことにいつも驚きを覚えます。

 

やがて、お盆がやってきます。

昨日もお墓参りに行ってきました。

 

汗を拭いながら墓石を磨き、故人と対話をするというのは、お盆ならではの時間です。

  

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やはり、私の生まれた8月というのは、生と死について考えさせられることが多い時期のようです。

 

私はルーツは、何だろう。

私は、どこから来て、どうやって死んでいくのだろう。

何がしたくて、今世に生まれることを決めたのだろう。

 

そんな考えても答えの出ない問いかけを、どうしてもしたくなってしまうのが、私にとっての誕生日の時期のようです。

 

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以前に「その人の年齢を3で割った数字が、人生の時計の時刻だ」というようなお話を聞いたことがあります。

 

中学生の15歳なら、3で割って5。

午前5時、夜明け前の時期と言えるのでしょう。

 

私の38歳なら、3で割って13くらい。

午後1時前くらいといったところでしょうか。

 

以前はこのお話しになるほどな、と思っていたのですが、最近はそう思う反面、そうでもないな、と思うようになりました。

 

人生という旅路に、一日の時間の流れや季節の移ろいというようなものは、もちろんあるでしょう。

どんなに頑張っても誰しも200年は生きられなさそうですし、やはり人生の夜明けと夕暮れはあるのかもしれません。

 

けれども、そうしたことよりも、ただこの迎えた新しい歳を楽しみたい、という思いが強くなってきました。

人生の中に浮き沈みも陰影も季節もあるかもしれませんが、毎年史上最高の歳を更新していく、そんな生き方にしていきたいと思うのです。

 

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生まれてきて、よかった。

私を産んでくれて、ありがとう。

 

今日はそんな想いを寄せる日にしたいと思います。

 

今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。

 

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プランターで育てようとした茄子を枯らしてしまったお話

いらっしゃいませ、「言の葉割烹おおさき」へようこそお越しくださいました。
店主のおおさきです。

 

以前に、息子に連れられてプランターで茄子を育てることになったお話をしました。
こちらですね。

 

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

今日はその後日譚を。

 

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息子と一緒に買ってきた茄子のその後。

 

鉢植えからプランターに移して、1週間ほどすると、みるみるうちに元気がなくなっていった。


日照時間が限られるベランダでは無理があったのか、


この40度超えの異常な暑さが堪えたのか、


水が足りなかったのか、それともやりすぎたのか、


肥料が足りなかったのか、


そもそも買ってきた時点で葉っぱが黄色かったりしたのがすでによくなかったのか、


素人の私には分からない。


けれども、ある日の朝起きると、茄子は力なくほとんどの葉っぱを落としてしまっていた。


水をやりにきてそれを見た息子の目に、

みるみる涙がたまっていった。


「おとうがおせわしないからかれちゃった!」


と訴えながらおとうの太ももを叩き始めた。


そうだよな。


茄子が枯れちゃって、悲しいよな。


茄子、大事に育ててたのにな。


おとうも、悲しい。


できれば、一緒に収穫したかった。


悲しいよな。


悔しいよな。


ごめんな。 


無理やり力ずくで抱っこしながら、そんなことを話していると、

息子は落ち着いてきたようだった。


 
問題だと感じることや、ネガティブな感情は、実は自分の奥底にある本音に気づくためのチャンスだと思ってて、


往々にしてそういうときは、


あいつが悪いと他人のせいにしてみたり、


さんざん悪態ついてみたり、


自分に足りないものがあったと自棄になってみたりするけれど、


たぶんその感情はダミーで、

その奥底にあるのは、


こうしたかった、


ああしてほしかった、


こうなってほしかった、


受け止めてほしかった、


という小さな小さな、か細い想いなのだ。


悪態つくのも意地を張ることも否定してしまうのも、

きっとその願いに気づくことの怖さの裏返し。


そして、自分でも気づかないその願いに気づいたとき、人は愛で満たされる。


どんなことも、それがトラブルであれ問題であれ、

その愛を思い出すための必要な体験なのであり、


その体験をするために人は生きる。


そして、もしかしたら、

その体験こそ、人が奇跡と呼ぶものなのかもしれない。


 
枯れてしまった茄子でも名残惜しく、まだ水をやっている。


けれど、秋が来たら、冬向けの何かを新しく育ててみようかと思っている。

 

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2018.8.9

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問題やトラブルと思えることも、必要だから起きること。
それはきっと、心の奥底に眠る本音に気づくためのプロセス。

 

最悪なことも、残念なことも、苦しいことも、痛いことも、
全部必要なプロセス。

 

その体験を重ねることが、生きている、ということ。

 

そして、私たちは心地よい体験も、イヤな体験も、全てを体験したくて、生まれることを選んできたのかもしれません。

 

小さな先生は、いつも私にいろんなことを教えてくれるようです。

 

 

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「才能」とは与えられた贈りもの(gift)であり、与える(give)もの

いらっしゃいませ、「言の葉割烹おおさき」へようこそお越しくださいました。
店主のおおさきです。

 

今日は「人の才能」についてのつれづれを。

 

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日本語の「才能」を意味する英単語は、「ability」、「talent」、そして「gift」という語が使われます。

 

このうち「ability」のニュアンスは、後天的に努力で磨かれたもの、あるいは磨かれる余地があるものといった意味で使われます。

 

She has an unusual ability in English.
(彼女の英語の才能はずば抜けている。)

 

私たちは、何かを積み重ねたり、努力を重ねたもの(先の例でいう「ability」の方)を「才能」として認める傾向があります。

 

これだけ時間をかけて努力を積み重ねたものだから、「才能」という「価値」があるものだろう、というように。

 

確かに、それも一つの才能であり、その才能を身につけたことは価値のあることです。

 

けれども、積み上げたものは必ず崩れます。

 

何かができること、
何かがわかること、
あるいは何かに秀でていること、
何かが優れていること・・・

 

そうした才能は、いつか必ずそれよりも「できる」「わかる」「秀でている」「優れている」ものに出会うからです。

 

そこでもっと努力して「才能」を磨くように頑張ることもできますが、それには終わりがありません。

 

その「才能」を磨いて競争をすることが楽しくて喜びであるのならばいいのですが、もしもその行動が自分自身の欠落感や欠乏感から来ているとすると、いつかその燃料が切れたときに燃え尽き症候群となって、競争の螺旋から強制的に降りざるを得なくなります。


その一方で、そうした後天的なニュアンスと異なる「才能」を示す語があります。


「talent」や「gift」という語ですね。

 

これらは先天的に、生まれつき天から与えられたものというニュアンスがあります。

 

You have talent.
(あなたには才能がある。)

 

She is gifted.
(彼女には類まれなる才能がある。)

 

よく心理学では「才能」のことを「ギフト」を表現しますが、よくできた表現だな、と思います。

 

生まれつきの、「才能」。

 

何かを積み重ねてできるようになったことではなく、自分が息をするようにできること。


それこそが、天なのか神さまなのか仏さまなのかが、人に与えてくれた「才能」なのだと思うのです。

 

そうした「才能」は、周りと比較する意味がないので、失われることも自信をなくすことも崩れる必要がありません。

 

それは、「なにかができる」「秀でている」「優れている」から「才能」という訳ではないからです。

 

突き詰めていけば、


「あなたがあなたであること」


それこそが、人が生まれ持って与えられた唯一無二の「才能」なのです。

 

周りの人に共感して勇気づけられるのも、あなたであるから。

 

うっかりミスをして周りが活躍するチャンスを与えられるのも、あなたであるから。

 

一緒にいると周りに安心感を与えるのもの、あなたであるから。

 

いつも遅刻して周りの時間に厳しいブロックを緩めることができるのも、あなたであるから。

 

その笑顔で世界を美しくするのも、あなたであるから。

 

あなたがあなたであるだけで、世界は優しく美しくなります。


それこそを、「才能=gift」と呼ぶのでしょう。

 

さて、「gift」にはもう一つ意味があります。

日本語の「ギフト」で使われる通り、「贈り物」という意味です。

 

そして、「gift」と同じ語源を持つ単語があります。

 

「give」という語です。

意味はもちろん、「与える」ということ。

 

「才能」とは、天からの贈り物。


そしてその贈り物は、「与える」ことと同義なのです。

 

あなたがあなたであること。


それは、何かができることもできないこともすべて含めて、自分であること。

 

それ自体が、限りなく尊い世界へのギフトと言えるのかもしれません。

 

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人の資質、才能を見抜くコーチ、コンサルタントなどをしておられる方は、みな「才能のない人などいない。誰しもが素晴らしい才能を持っている」と言います。

 

きっと彼らの言うところの「才能」とは、

 

giftであり、
贈り物であり、
giveするものであり、
与えるもの、

 

なのでしょう。

 

「才能」について、そんな見方をしてみると、世界が少し違って見えるかもしれません。


今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。

 

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