大嵜 直人のブログ

別れによって傷ついたココロは、出会いで癒される。私が辿ったそんな物語を「書く」ことをライフワークにしています。

北の星空に響く美しきあの音色を想うこと。

ameblo.jp

 

その写真を見たときに、私の中で何かが壊れた気がした。

 

涙が流れる。

 

人に見られない場所に隠れてひとしきり泣いたあとに、私はその音色に想いを寄せた。

 

名古屋と比べるには、あまりにも涼しい7月の北の大地。

 

その空の下のピラミッドで聴いた、あの神々しい音色。

 

広がる波紋、心臓のビート、海の底、寂しそうな母親の背中。

 

地上の光、見上げればそれは満天の星のようにピラミッドの天井に映っていた。

 

f:id:kappou_oosaki:20180714080855j:plain

 

あの薄いグリーンのボウルの音は、どんな音だったのだろう。

 

私の背骨に響いていたあの音だろうか。

 

お腹の下のほうで鳴っていたあの音だろうか。

 

それとも、頭の上のあたりで鳴っていたあの音だろうか。

 

私はそれを思い出せずにいた。

 

けれど、どれも合っているような気もする。

 

ボウルに割って溶いた複数の卵が、

もう不可分になってしまっているかのように、

 

あまりにも完璧なハーモニーから、

一つの音だけを取り出すのが困難なように、

 

あの星空の下で聴いたどの音も、あの美しいグリーンのボウルの音なのだろう。

 

たぶん、あのクリスタルボウルの美しい音色は、たしかに「わたし」という三文字の中の一部になってしまっていたのだと思う。

 

その身体の一部がなくなったかのような、喪失感と悲しさ、そして痛み。

 

 

いつも私は、何かを失うことを怖れ、何かが無くなることに痛みを感じる。

 

両親との突然の別離からなのか、それともずっと前から抱える痛みなのか。

 

いずれにせよ、別れる、壊れる、なくなる、変わる、失う、捨てられる・・・は、いつだって私にとって恐ろしいものだ。

 

もう言葉を交わすことのできなくなった父と母。

時間とともにバラバラになってしまったコミュニティ。

どこかで失くしてしまったキーホルダー。

大きく変わってしまった故郷の風景。

まちがって捨ててしまった本やアルバム。

 

どれも、私の心の中の最も痛い部分を刺激する。

 

何かを失う、という痛み。

 

その失われた空間に、あたらしくすばらしい何かが入ってくるという喜びよりも、その痛みに私は怯え、おののく。

 

それを思い出す痛みは、まるで病や呪いや災いのように感じ、得体の知れない焦燥感に胸が焼けただれてしまう。

 

分離などあり得ずに人と人は深い部分でつながっているとか、

起きていることは全て正しくてプロセスは完璧とか、

ものごとをただありのままに見るとか、

出来事は起きた、ただそれだけ、とか、

人生最大の悲劇は、人生最高の喜劇に変えらえるとか、

 

ほんとのところは、そっちが真実なのだとは思う。

 

けれど、そうだとしたら、

 

この頬を伝う涙は、何なのだろう。

この熱くなった目頭は、何なのだろう。

喉を鳴らすくぐもった音は、何なのだろう。

俄かに覚える吐き気は、何なのだろう。

 

そんなとき、私はいつも「ふう」と大きなため息を吐いて、伏し目がちに顔を上げる。

 

そうして、下唇を噛んで、できるだけ遠くを見る。

 

そこに何もないのを分かっていながら。

 

 

けれど、Rikaさんは

 

起こる出来事はニュートラルで、どのようにでも意味をつける事が出来る

 

おそらく世界の真実のひとつと思われる、そんな言葉を引用されていた。

 

起こった事は全て、さらによくなる為の出来事

 

そんなご自身の言葉とともに。

 

しなやかで、強く、美しい言葉だな、と思う。

 

失くしたものや、別れた人、過ぎ去った時間に、いつも執着してすぐにロスになる、至極めんどくさい男の私には、まだその境地は遠い。

 

 

至極めんどくさい男の私は、至極めんどくさいことを考える。

 

いったい、私の世界から消えてしまったものたちは、私のことを考えることがあるのだろうか、と。

 

今生の別れをした母親は、どこかから幼いころ私が好きだったコーラアップのパッケージが新しくなったのを見て、ぎゅっと胸が詰まるような想いをすることがあるのだろうか。

 

あの失われたコミュニティで使っていた譜面台は、私ではない誰かの楽譜を乗せてセンチメンタルに私を思い出すことがあるだろうか。

 

あのキーホルダーは、もともと付けられていたカバンを探すことがあるのだろうか。

 

いまもどこかで、あの失われた故郷の風景に秋風が吹くことがあるのだろうか。

 

あの捨ててしまったアルバムの写真は、いまもセピア色を強めていることなどあるのだろうか。 

 

ある。

 

根拠はないが、「ある」と思った。

 

いや。

 

いまも「わたし」のなかに息づく、あの北の星空に響く美しき音色が、きっと根拠なのだろうと思う。

 

それは、「わたし」だけでない。

 

そして、あの星空の下で一緒に音色に聞き惚れた人たちだけでもない。

 

それを聴いた人が誰かに触れるたび、その音色は水面に隆起する波紋のように共鳴し広がっていく。

 

その誰かは、また別の誰かとその音叉を共鳴させていく。

 

いまも、あの美しい緑色のクリスタルボウルの音色はこの世界に豊かに響いている。

 

そして、これからも。 

 

ずっと。

 

ずっと。

 

f:id:kappou_oosaki:20180714064351j:plain

心から、ありがとう。

 

その美しき音色を、CDで聴くことを心より楽しみにしています。

 

_______________

執筆についてのご依頼、ご相談は

下記のいずれかまでお願いいたします。

Instagram → naoto_oosaki

Facebook → naoto.oosaki.5

twitter → @naoto_oosaki

LetterPot  → users/13409 

_______________

雨水の朝に。

雨水の朝。

 

少し浅い眠りから起きると、雨の匂いと

 

昨日までよりも暖かな空気。

 

立春を過ぎて2週間。

 

あんなにも冷たかった雪も、

 

だんだんと暖かな雨に変わり、

 

池や川の氷も溶け始める節気。

 

春近し。

 

寒く苦しいときに張った根は、

 

やがて春暖の空を覆う繚乱の花へと。

 

目に見えないだけで、

 

すべては完璧なプロセスを歩む。

 

今日、ここからまた始めよう。

 

いつでも、ここに戻ってこよう。

 

f:id:kappou_oosaki:20190219210731j:plain

 

_______________

執筆についてのご依頼、ご相談は

下記のいずれかまでお願いいたします。

Instagram → naoto_oosaki

Facebook → naoto.oosaki.5

twitter → @naoto_oosaki

LetterPot  → users/13409 

_______________

ただ、そこで笑っていてくれれば、それでいい。

おとつい、昨日のエントリーの続きです。

 

親の心が、プロジェクター。その内面を、子どもという真っ白なスクリーンに映し出す。 - 大嵜 直人のブログ

 

絶対にダメなことをしてしまうこともある。ときにあなたも、そしてわたしも。 - 大嵜 直人のブログ

 

頂いたご質問の二つめ、

 

「どうやって自分を癒してきたのですか?女性の側からすると、パートナーの持つ無力感・無価値観・罪悪感とどう向き合って見守ってあげたらいいのだろう?」

 

について、回答させて頂きたいと思います。

 

昨日は「ただ、笑っていてくれれば、それでいい」と書きましたが、なぜ私がそう思うのか?という背景や前提を含めて、少しくわしく書いてみたいと思います。

 

私がそう思うに至るまでに、たいせつにしていることは二つあって、

 

「原因と結果は切り離した方がいい」

「人は他人を変えられない」

 

という二つの前提があります。

 

順に書いていきますね。

 

 

前提として、私は癒されているかどうか?といえば、決してそうではないように思います。

 

まだまだ両親との突然の別離からの傷にまみれてますし、その傷が疼いて見捨てられる怖れに怯えるときも多々ありますし、それによってほんとうは誰よりもつながりを求めて寂しいはずなのに、他人との一定以上に親密になることに強烈な怖れを抱いています。

 

とはいえ、そうしたことを自分で自覚できるようになってきたということは、癒しが進んでいると見ることもできます。

以前は自分の持っているそうした傷や、痛みを深く封印してしまい、自覚することすらできなかったですから。

 

幸運にも私がそのような過程をたどることができたのは、いくつも要因を挙げることはできます。

 

得難いたい人との出会いがあったり、

そこから心理学の世界を学んだり、

無条件で愛を与えてくれる子どもたちがいたり、

ときにわがままを通して新しい世界に飛び込んでみたり、

そこで出会った人の温かさに触れたり・・・

 

振り返ってみれば、いくつでも「癒された原因」を挙げることはできます。

 

けれども、それは「振り返ってみて」の話であって、「それがあったから必ず癒される」というものではないように思うのです。

 

「結果」の側から見ると、「原因」は明らかに見えるけれど、

その「原因」があったから、必ずその「結果」になるとは限らない、

ということです。

 

たとえば奈良の東大寺の大仏様は、疫病や飢饉、洪水や地震といった天災などが頻発して社会が不安になっていた中で、仏さまに祈りを捧げるために建立されたと歴史の上では言われます。

けれども、社会的な不安が頻発すると、必ず大仏様が建立されるわけではない。

 

必ずしも、「原因」と「結果」は結びついていないのかもしれません。

 

 

人は、人を変えることはできません。

 

誰かが変わったように見えるとき、変化したように見えるとき。

それは、そのきっかけになった出来事や出会った人がどんなものであれ、それはあくまで「きっかけ」に過ぎないと思うのです。

 

どんな人でも、どんな状況でも、「自らの意思と力で変わった」のだと思います。

 

そして加えるなら、その変化するタイミングは、その人にとって必要なベストのタイミングで訪れる、とも思います。

 

人はどうしたって、他人をコントロールしたくなります。

関係性が近くなればなるほど、それは顕著になります。

 

ところが、他人から「あなたはこうした方がいい」「こういうふうに変わった方がいい」と言われるのがあまり気分のいいものではないように、自分が他人に対してそう言うことも、同じことだと思います。

 

(まったく同じ理由で、他人から「こうした方がいい」「こう変わった方がいい」と言われて、喜んで変わろうとしてしまうのは、少し落ち着いて考えた方がいいように思います。

そこで成功したりしたら、ずっとそのアドバイスを渇望するようになるし、自分の思うようにいかなかったら、その人を責めるようになって、誰かを責める罪悪感を抱える、というスパイラルに陥ってしまうから。

どんなに間違っていても、愚かでも、人生の選択は「自分で選び取る」ことに価値があるのですから。)

 

夏の終わりにクヌギの木に産みつけられたカブトムシの卵が、秋に幼虫に孵って、寒い冬を土の中で過ごし、春の終わりにサナギとなり、そして夏に成虫となって土の外へ出てくるように、

 

冬の終わりに植えた種が、春に芽吹いて、梅雨を経て葉を広げ、夏の陽射しを浴びて、秋にようやく実をつけるように、

 

人の成長と変化、そして癒しには、人それぞれの時間とタイミングがあります。

 

それを「早くサナギになれ」「早く収穫したい」というのは、少し世界と調和していないように思うのです。

 

もちろん、人間ですから、周りの人を変えようとしてしまうときもあります。

 

そんなときは、そんな自分の気持ちもしっかりと認めて受け入れて、その人が変わったときに、その変化を見過ごさないように見続けるようにしたいな、と思います。

 

 

「原因」と「結果」を考えるのは、あまり意味がない。

そして、人は人を変えられない。

 

その二つを前提とするなら、無価値観や無力感、罪悪感の強いパートナーのために女性ができることは、自明のように私は思います。

(私自身が無価値観や無力感、罪悪感が強い傷まみれの男性なので、説得力があるはずです笑)

 

昨日お書きした通りです。

ただ、そこで笑っていてくれれば、それでいい。

 

季節がくれば咲く花のように、ただそこで咲いていてくれれば、それでいいのです。

 

女性は傷ついたときに、誰かと一緒にいたがりますが、

男性は同じ状況で、一人になりたがります。

 

それは、女性から見ると自棄になっていたり、自虐的に見えたり、自己破壊のように見えたりするかもしれませんが、女性が辛い話や愚痴を聞いてもらう時間と同じだけ、男性は一人の時間を必要とします。

(一般論としてであって、もちろん一人の時間が必要な女性も、誰かに話す時間が必要な男性もいます)

 

そこで一人になっている男性に、わざわざ向き合ったり、見守ったり、何かを与えたりしようとしなくてもいいと、私は思います。

だって、女性がたいせつな友達や友人とお話ししている時間に、「それよりも一人でいる時間が必要だ」と言われても、まったく同意できないと思いますから・・・

 

ただ男性としては、もの思いにふけって、一人の時間を十分に過ごして、ふと日常にもどったときに、そこに咲いている花であってさえすれば、いいと思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

その人が望むときにしか、人は変わらないのだとしたら、「ためにする何か」はあまり意味がないはずです。

 

パートナー関係をよくするためには「何か」をやってみること、

傷ついた彼を癒すために、何が必要か思いをめぐらすこと、

相手の愛情にずっと甘えてきて、それに気づかなかった、

そのために・・・

 

もちろん、それをすること自体は、とても素晴らしいことだと思います。

だって、それは全部、その人のことを想って、その人への「愛」からの行動だから。

 

もっと私がいままで向き合っていたら、

もっと私が癒してあげられていたら、

もっと私があのときこうしてあげられていたら、

もっと私が・・・

 

そんなこと、思わないでくださいね。

そんなことを思うのは、世界で一人しかいないですから。

そんなことを思ってしまうのは、愛が深すぎるあなただから。

 

きっと、周りの誰が見ても、あなたくらいに愛を与えている人はいないはずです。

 

そして、それはあなたに最も近しい人が、一番よく分かっているんじゃないかと思うのです。

 

無償の愛も、依存的な愛も、出し惜しみした愛も、めんどくさい愛も、エゴの混じった愛も、怖れを抱えながらの愛も、ぜーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんぶひっくるめて、尊い愛です。

そこに正誤善悪も、優劣も何もありません。

 

ただ、自分の与えてきた愛の深さ、大きさ、広さ、温かさ、優しさ、美しさ、健気さ、まっすぐさ、豊かさ、完全さ、尊さを、もう一度振り返ってみて、受け入れるだけでいいんじゃないかな、と思うんです。

 

すべての女性には、どんな傷も怖れも無力感も無価値観も罪悪感も、愛に変えていける力がもともと備わっている、私はそう思います。

 

いま、もうすでに完璧なのですから、さらに完璧を求めても得られないのは当たり前です。

 

等身大の自分の愛。

その偉大さを、余すことなく受け入れていけばいい。

 

だから、

 

 ただ、そこで笑っていてくれれば、それでいい。

 

と昨日お書きしました。

 

それが「もしかしたら、結果的には」男性にとってのこの上ない癒しとなるのかもしれませんね。

 

f:id:kappou_oosaki:20190217204115j:plain

 

まだ寒い日が続きますが、もう桜の蕾も膨らみ始めていました。

 

蕾は膨らみ、花は咲き、そして散り、若葉を繁らせ、そして葉も散っていきます。

散った葉は、足元の土に還り、そして次の春の花へと。

 

変わっているように見えて、変わっていないのかもしれません。

変わっていないように見えて、変わっているのかもしれません。

 

桜も人も、同じようなものなのかもしれません。

 

 

ご質問いただいた内容に対して、お答えになっているかどうか自信がありませんが、いまの私の考えをお伝えさせて頂きました。

 

お答えする中で、私の中で整理したり消化したりすることができました。

またお問い合わせ、ご質問をいただいた際には、お答えしていきたいと思います。

 

ご質問いただきまして、ありがとうございました。

 

_______________

フォロー頂けると喜びます!

Instagram → naoto_oosaki

Facebook → naoto.oosaki.5

twitter → @naoto_oosaki

LetterPot  → users/13409 

_______________

絶対にダメなことをしてしまうこともある。ときにあなたも、そしてわたしも。

昨日のこちらのエントリーに、ご感想をいただきました。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

自分の闇を晒すのは勇気が要りますが、書いてよかったと思います。

ありがとうございます。

 

その中で、

「どうやったら手を上げるようなことを、しないようにできますか?」

 

「どうやって自分を癒してきたのですか?女性の側からすると、パートナーの持つ無力感・無価値観・罪悪感とどう向き合って見守ってあげたらいいのだろう?」

 

というご質問をいただきました。

 

ふと考えて、この問いにお答えすることが、いまの私にとっても必要だと思われますので、今日はそれに回答させていただきます。

 

いつもと文体が異なるのは、少しセンシティブな話題を扱うので、少しでも印象が柔らかい方がいいかな、と思いそうしています。

 

それはさておき、先に私の答えをお伝えするならば、

 

一つ目のご質問に対しては、

「私はこれから手を上げることも、もしかしたらあるかもしれない」

 

二つ目のご質問に対しては、

「ただ、笑っていてくれれば、それでいい」

という答えになるでしょうか。

 

順番にお話ししたいと思います。

 

 

まず一つ目のご質問に対してです。

 

私は孤独感の強い人間です。

これまでにも書いてきましたように、両親との突然の別離から抱えたそれは、私の持病のようにどこへでも付き纏ってきます。

 

他人との親密感への怖れは強く、それなのに孤独や寂しさを怖れます。

 

そして、いまでも私は疲れていたり、余裕がなかったりするとき、子どもに対して感情的に怒ってしまったりもしますし、もちろんイラついたりしますし、不安や怖れからああせえこうせえと言ってしまったりします。

 

この先、以前のように子どもに手を上げてしまうことも、絶対ないとは言い切れません。

 

もちろん、そんなことはあってはならないことですし、そうしたくはありません。

 

けれども、それが絶対にないと言い切れるかと言ったら、言い切れません。

 

「そんなことを言うのは、弱い人間だ」と言われれば、それまでなのですが・・・

 

ただ、以前と違うのは、そうした「あってはならいこと」をしてしまうかもしれない、未熟で不完全な自分を許している(完全に許せているわけではないので、正確には許そうとしているが正しいかもしれません)、ということなのかもしれません。

 

子どもに手を上げることなど、あってはならないことだけれども、それでも、そうしてしまうときもある。

 

聞く人によっては、汚い自己保身や自己正当化のように聞こえるかもしれませんし、実際に子どものころにそのような経験がある方には、絶対に許せないかもしれません。

 

けれども、「子どもに手を上げてしまうこと」を許さないことと、「子どもに手を上げてしまう人」を許すことは、同時に成り立つことができると思うのです。

 

誰しもが、絶対にいけないことだとわかっている。

ワクワクして心の底からの喜びで、子どもに手を上げる人なんかいない。

それでも、そうしてしまう人がいる。

傷ついた心から血の涙を流しながら、それをしてしまう人が、いる。

それはテレビの画面の向こうの人かもしれないし、自分かもしれない。

 

これから手を上げてしまうかもしれない自分を許すようになった(正確には、許そうとしている)ことが、大きな違いかもしれません。

 

いじめをなくそうと思ったら、正義の側からいじめた側に罰を与えることは意味がありません。

浮気をしたパートナーとやり直そうと思ったら、パートナーがした行為が間違っていると責めることは逆効果になります。

犯罪を減らそうと思ったら、刑法を厳しくすることがその解決策ではないはずです。

テロを無くそうと思ったら、その組織を叩くことはまったく意味がありません。

 

きっと真実は、そう見えるのと逆のところにあると思うのです。

それは、

 

いじめた側に、なぜそれをしたのかを聞くことです。

パートナーがそんなことをした心情を、理解しようとすることです。

なぜ犯罪という行為に手を染めるのかを、調べることです。

テロリストの心に、寄り添うことです。

 

そのためには、まず自分の闇を許すことなんじゃないかな。

 

私はそう思います。

 

ここが非常にセンシティブで表現に気を遣うのですが、

「絶対にダメだということを、誰も絶対にしてはいけない」

というのはどうやったって苦しくて、誰かがやむなくやってしまったことを責めなくてはならず、その責めは必ず自分にも向く可能性があるので、息苦しく生き辛くなります。

 

それよりも、

「絶対にダメだということを、ときにしてしまうこともある。ときにあなたも、そしてわたしも」

という方が、優しいと思うのです。

 

それは、自己保身でも自己正当化でもなくて、他人のための優しさだと思います。

その優しさは、めぐりめぐって最終的に自分に還ってくるわけですが。

 

日本にはそれを表すことわざが古くから伝わっています。

 

「情けは人のためならず」

「罪を憎んで人を憎まず」

ですね。

年を経るごとに含蓄のある言葉です。

 

 

綺麗ごとかもしれません。

 

私自身は虐待された経験はありませんが、かつていじめられていたことや、たいせつな肉親を殺人によって亡くした経験があります。

 

その上で、私は綺麗ごとを見ていたいと思うのです。

 

それは同時に、私自身を含めた人の不完全さ、弱さ、脆さ、汚さ・・・そういったものを許すことに他ならないように思います。

 

清廉潔癖な高貴な人間と、そうでない低俗で悪魔のような人間。

それは別に存在するわけではなく、一人の人間の内側に必ず両方います。

それを、許すこと。

 

それが、大切なことの一つかもしれません。

 

少しご質問の趣旨から外れたかもしれませんが、私はそのように思うのです。

 

 

一つ目のご質問に対しての答えが少し長くなってしまいましたので、二つ目のご質問は改めてご回答させて頂きます。

 

あらためまして、ご感想やご質問頂きまして、ありがとうございました。

 

_______________

フォロー頂けると喜びます!

Instagram → naoto_oosaki

Facebook → naoto.oosaki.5

twitter → @naoto_oosaki

LetterPot  → users/13409 

_______________

親の心が、プロジェクター。その内面を、子どもという真っ白なスクリーンに映し出す。

親の心が、プロジェクター。

その心の中で輝いている「光」や、あるいは蓋をしてなかったことにしている「闇」が、子どもという真っ白なスクリーンに鮮やかに拡大して映し出される。

 

 

驚くべきことに、親がしたかったこと、言いたかったこと、我慢していたこと、それらを子どもが余すことなく完璧に代わりをしてくれるようだ。

 

親が不快に感じる子ども行動は、すべてその親自身へのサイン。

 

ある意味で、人間関係における普遍的な真実が、最も強く炙り出されるのが親子関係と言えるのかもしれない。

 

「子育てと自分育て」とはよく言ったもので、ほんとうのところ育てられているのは私の方であり、癒されているのも私の方なのだ。

 

 

それは冬至を過ぎた、寒さも本格的になってきた休みの日だったように思う。

 

昼食の後にお絵描きに没頭していた息子が、突然癇癪を起こし、泣きだした。

 

描こうとしていた恐竜の漫画が上手く書けないことに腹を立てた癇癪だと思っていたが、話を聞いていくうちに、どうもそれとは違うことが分かった。

 

「ぼくはほんとうは泣きたくない」

「ぼくは悪い子になりたくない」

「イヤっていうことが言えない」

「パンチやキックしてやり返すと、ぼくは悪い子になってしまって、おにがくる」

 

そう泣きながら訴える息子の声を、わたしは静かに聞いていた。

 

そうか、これはたぶん俺の心の内なんだろうな。

YESは言えても、NOが言えない、私の気弱な心の内面。

 

ひとしきり話して落ち着いた息子を抱きかかえ、つとつとと話をした。

 

「話してくれて、ありがとう」

「悪い子でもいい、パンチしてもキックしても、おとうもおかあも君を愛している」

「話してくれて、ありがとう」

「生まれてきてくれて、ありがとう」

 

側では不思議そうに娘が見守っていた。

 

「じゃあ、『やめてよ、いやだよ』って言う練習しようか」

「おとうがパンチするから、ちゃんと目を見て、『やめて』って言ってみよう」

 

何度かの逡巡と気恥ずかしそうな表情の後、息子はしっかりと私の眼を見て『やめて』と言えるようになった。

すごいことだ。

 

抱きかかえたまま、何回か同じような練習を繰り返したあと、まるで憑き物が落ちたかのように息子はニコニコして絵を描き始めた。

 

散らばった色鉛筆を拾い、あとには何もなかったかのような静寂が訪れた。

 

側にいた娘は面白がって、「わたしもやるー」と言って同じ回数だけ練習を繰り返させられた。

 

 

こう書くと美談やできた親のように聞こえるかもしれないが、まったく同じ息子という真っ白なスクリーンに、私自身の完全なる闇を投影したことがある。

 

あれは、息子が3歳くらいのときだったのだろうか。

 

娘と三人で留守番をしている中で、何かの拍子に息子と娘が二人とも泣き出した。

 

もう今となっては何が原因かも思い出せないくらい、些細ななことだったのだろう。

 

私はどうしたらいいかわからず、なだめてみたり、怒ってみたり、無視してみたり、あらゆる方法でその耳障りに感じる泣き声を止めようとした。

 

子どもの泣き声というのは、無価値観や無力感、罪悪感を抱える親にとって、どうしようもなく心の痛みを刺激する。

 

自分には何の価値もない。

自分は不完全で無力な親だ。

自分は罰せられるべき悪い親だ。

 

そのような親の悲しい前提を、子どもの泣き声というのは刺激する。

 

息子の泣き声は、心の中にぽっかりと空いた私の無価値観や罪悪感を刺激するのに十分すぎる破壊力だった。

 

いつまでも泣き止まない息子と娘。

 

いま思えば、たかだか10分やそこらの癇癪なり喧嘩だったのかもしれない。

 

けれども、そのときは永遠に泣き止まないのではないかと感じられた。

 

次第に私は声を荒げていった。

 

いっそう激しく泣きながら、息子は「おかあさんといっしょのおやすみがよかった」と切々と訴えてきた。

 

私の心の中の無価値観と罪悪感を突く特大のキラーワードに、気づくと我を忘れていた。

 

暴言を吐きながら、幼い我が子の胸ぐらを掴んでいた。

 

必死に息子は暴れた。

 

その拍子に足を滑らせ、息子は転んで上唇を切った。

 

息子の唇に浮かんだ紫色の傷を見て、取り返しのつかないことをしたと私は認識すると同時に、おそらく永遠に抱えるであろう罪悪感を覚えた。

 

何度も何度も私は謝った。

 

けれど、その私を見る息子の眼に宿った怯えは、いつになったら消えるのだろうかということばかりが気になった。

 

私はおそらく墓場までこの罪を持っていかなければならないのだろうな、と妙に冷静な頭で考えていた。

 

どうしようもない、クズ親。

救えない、男。

 

どれだけ謝っても、許されるものでもない。

死にたくなるくらいの罪悪感。

 

そこから息子とどんな会話をしたのか、記憶があまりない。

 

 

それまで、温厚だとか、優しそうとか、ケンカしなさそうとか、怒らなそうとか、周りの人によく言われてきた。

 

違う、そうじゃない。

 

俺は怒ることすらできないくらい、感情が死んでいたんだ。

怒らない人間なんて、いるはずないじゃないか。

 

同じ時期に、ある方に言われたことがある。

ほんとうのところ、何を考えているのか分からないよね、ふと不機嫌そうな顔をしているときがあるよね、と。

 

当時はショックを受けたが、いま考えると当たり前の話だと思う。

何を感じて、何を考えているのか、自分自身がわかっていないんだから。

 

わけもなく湧き上がる怒りや悲しみや寂しさを、無理して取り繕って、蓋をして、なかったことにして、それでも隠しきれないその怒りや不機嫌を、周りが感じるくらいで。

 

その我慢してきたものを、息子というか弱い存在にしか吐き出せなかった。

 

頭を掻きむしりながらこれを書きながら、私はおそらくあの息子の怯えた瞳を一生忘れることはないだろうと思う。

 

親と子どものネガティブな悲しいニュースを見かけるたびに、いつも思う。

 

ああ、俺とおんなじ。

それをどうこう言う権利は、俺には何もない。

俺自身が、最低の親だからだ。

 

別に彼らが特別悪い不出来な人間というわけでもない。

俺と、何の違いもない。 

 

ただただ、心からドクドクと血を流している、傷ついた悲しい人間だっただけだ。

 

 

結局は、親の心の内にある光も闇も、余すことなく見せてくれるのが子どもという存在のように思う。

 

傍から見て同じ行動をしていても、それはえげつないくらいに親の心が炙り出される。

 

子どもが泥んこ遊びをしていても、それを見て昨日は「よく遊んだね、楽しかった?」と褒めたり、今日は「こんなに汚して!」と怒ったりすることなんて、日常茶飯事だ。

 

それは、自分の心の状態が投影されているだけで、子どもはいつだって真っ白でフラットだ。

 

そこに、癒すべき何かが、それがわだかまりなのか、過去のトラウマなのか傷なのか、カルマなのか分からないが、それがあるからこそ、その感情を感じさせてくれることが起こる。

 

すべての子どもは、無条件に親を救いにやってくると言われる。

 

もしそうだとするなら、子どもが泣くのは親を癒すためではないかとも思う。

 

もしそうだとするなら、息子と娘も私を救いにやってきてくれたのだろうか。

 

もしそうだとするなら、私も父親と母親を救ってきたのだろうか。

 

もしそうだったら、いいのだが。

 

 

これまで小さな先生について書いたエントリーを振り返ってみる。

どれを見ても、懐かしい。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

「好きなこと」をとことんしよう。

息子は教えてくれた。

 

罪悪感とお金のブロックを感じながらも、外出の度にせっせと買い集めた恐竜たちは、今では息子のたいせつな友達になった。

その一頭一頭に名前を付けて、出席簿までつくっている。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

息子が闇を吐き出してくれたときのこと。

私が誰よりも自分自身を否定していることを、自覚したころに起こったように思う。

 

親の心が、プロジェクター。

子どもは、ただその内面を映し出すスクリーン。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

誰かの心に寄り添うことを、娘は教えてくれた。

結果主義の男性には、なかなか理解することが難しいものだ。

 

結果よりも、正しさよりも、相手の心に寄り添うこと。

小さな先生は、いつでも偉大だ。

 

kappou-oosaki.hatenablog.jp

 

子ども無条件に全力で親を救うためにやってくる。

そんなことを実感したお話。

 

どうして娘は、話してもいないのに、私が親を亡くした悲しみに寄り添おうとしてくれるのか。

神々しい何かを感じざるを得ない。

 

 

さて、息子は再燃した恐竜ブームから、今度は野球に興味が出たようだ。

 

同僚からもらったグローブとボールで、キャッチボールをする週末が楽しみだ。

 

f:id:kappou_oosaki:20190215160040j:plain

 

_______________

フォロー頂けると喜びます!

Instagram → naoto_oosaki

Facebook → naoto.oosaki.5

twitter → @naoto_oosaki

LetterPot  → users/13409 

_______________

いま、その手のなかに「無い」ものは

季節は完璧なまでに美しくめぐる。

 

日々、

太陽はその雄大な昇る角度を変え、

月はその美しい表情を変え、

星はその瞬きのような並びを変えていく。

 

誰かが忘れていたとしても、完璧なまでにめぐっていく。

 

その下で生きる私たちも、同じように。

 

f:id:kappou_oosaki:20190215173312j:plain

 

花も、木も、虫も、ネコも、あなたも、私も。

 

プロセスが完璧で全て正しいものだとするなら、

 

きっと

 

いま、その手のなかに「無い」ものは、

これまでの私にとって必要なかったもの。

 

そして、

 

それは、ほんとうに必要なものならば、

これから必ず得られるもの。

 

見上げた空は、きっとその日につながっている。

 

今日も世界は美しい。 

人生におけるパラドックス10選。

この世はパラドックスに満ちている。

 

目に見えるものの反対こそが、実は真実である場合は多い。

 

今日はそんな人生におけるパラドックスを、選りすぐってみたい。

 

 

1.やる気を出すためには、やりはじめるしかないというパラドックス

 

やる気を生み出す場所は脳の「側坐核」と呼ばれる場所は、そこに刺激が与えられるとやる気を生み出すといわれる。

ということは、やる気を出すためには「それをやりはじめる」しかないということらしい。

 

行動をするモチベーションを上げるためにするなにがしかには、あまり意味がない。

 

厄介な仕事もやり始めてみると意外と早く終わるように、ほんの少しの一歩を踏み出して始めてしまうことでしか、やる気は生まれない。

 

2.欠点や短所こそ最強の才能、というパラドックス

 

多くの人が、才能とは人の長所だと考える。

そして、自分の長所を伸ばそうと考える。

 

ところが、多くの場合、自分が長所だと考える点は、周りからするとあまり才能だとは思えないことが多い。

 

実は、最も忌み嫌う自分の短所であり、絶対に修正しないといけないと考えている欠点にこそ、その人の唯一無二の才能を開くキーが隠れている。

 

臆病だと思っている短所は、鉄壁のリスクヘッジができる才かもしんれない。

神経質だと思っている短所は、感受性豊かな才能かもしれない。

マイペースだと思っている短所は、自分の軸がブレないひとかもしれない。

大雑把だと思っている短所は、自然体で周りに親しみを与えるのかもしれない。

寂しがり屋だと思っている短所は、人と人をつなげられるのかもしれない。

 

そんなふうに自分が隠さないといけない、直さないといけないと思っている短所にこそ、自分の天賦の才を開くカギが隠されている。 

 

3.誰かを「許す」ためには、その人を「許していない」自分を許さないといけないというパラドックス

 

人生で許さなければいけない三銃士。

父親、母親、そして自分。

 

この三銃士の誰かを許していないと、明後日の方向から狙撃される。

父親だと、仕事やお金。

母親だと、人との親密感やパートナーシップ、そして自己価値。

自分は、そのすべて。

 

生きることに閉塞感を感じたり、何らかの問題を引き起こす場合は、その三銃士が関連していることが多い。

その三銃士を「許し」、そして「感謝」に至ることは、自分の人生という航海の帆を上げることに等しい。

 

けれど、これがウルトラS級に難しい。

根雪のように降り積もった感情のしこりが、それを阻害するからだ。

なかなか一朝一夕にはいかないし、その試みは一生続く。

 

その第一歩は、「許していない」自分を許す、ということ。

メタ言語のように、一歩引いた立場から自分を見ること。

 

これができるだけでも、ずいぶんと楽になる。

しゃあないやん、それが自分だもん。

 

 

4.傷つけられた者よりも、傷つけた者こそ癒しが必要、というパラドックス

 

振り上げた拳や、吐き捨てた言葉、心無い言動が、世の中にはある。

そこで生まれるのは、「傷つけた者」と「傷つけられた者」。

 

「傷つけられた者」はかわいそうで、癒されないといけない。

そう思いがちだが、真実はその逆で、「傷つけた者」こそ癒されるべきなのだ。

 

見ないといけないのは、表層の裏側だ。

 

なぜ拳を振り上げるのか?

なぜ殴ってしまうのか?

なぜ虐待してしまうのか?

なぜ暴言を吐いてしまうのか?

なぜわざわざ心無い態度を取ってしまうのか?

なぜパートナーを傷つけるようなことをしてしまうのか?

なぜ傷つけてしまうのか?

 

よくよく想像してみてほしい。

ある晴れた風の心地よい休みの日の朝から、それをしようとする人がいるだろうか?

待ちきれなくて、心躍りながら、ワクワクの中でそれをしようとする者がいるだろうか?

 

いないはずだ。

 

それをしてしまうのは、傷ついているからに他ならない。

 

そして、誰かを傷つけたということは、罪悪感というこの世で最も恐ろしい刃で自らを責め続けるという苦行を背負う。

 

表面上はまったくそう見えなくても、心の奥底に横たわった罪悪感は、じわじわと、しかし確実にその者の心を蝕んでいく。

 

ほんとうのところ、癒しが必要なのは、

加害者の側であり、

不倫をした方であり、

いじめた方であり、

拳を振り上げた方であり、

モラハラをする方であり、

親の側なのだ。

 

その癒しができるのは、「傷つけられた者」だけである。

 

その真相を無視して、「傷つけられた者」にのみ目を向けることは、加害者と被害者を分け、悲しみの連鎖を招く。

 

被害者は「傷つけられた」と声を上げることで、簡単に加害者、「傷つける者」の立場にすり替わるからだ。

 

悲しみの連鎖は、止められる。

 

それは、「傷つけた者」と「傷つけられた者」という正誤善悪の区別を外すことから始まる。 

 

5.自分がほんとうにある人から欲しかったものは、実はその人があなたにあたえてほしかったものだったというパラドックス

 

自分が欲しいと思うことを求めると渇望感が色濃くなり、逆にそれが欲しかった相手に与えてみると、人は満たされるものだ。

 

寂しくてつながりが欲しかった人こそ、きっと周りに連帯感と安心感を与えると満たされることができる。

 

社会的な成功が欲しかった人は、きっとたくさんの人の成功と才能を認めてあげることで満たされることができる。

 

パートナーからの愛情が欲しかった人は、きっとパートナーに無償の愛を与えることで満たされることができる。

 

心の内を話せる友人が欲しかった人は、きっと大切な友人が傷ついたときに朝まで話を聞いて一緒にいることで満たされることができる。

 

6.ほんとうに相手のことを想って大切にしたいならば、自分を大切にすることに尽きるというパラドックス

 

相手を大切にしたいがあまり、自分を犠牲にしてしまう。

自己犠牲、という罠。

 

私もよくやるが、これはあまり得策ではない。

「自分を大切にしていない者」という不信感が生まれてしまうからだ。

 

ほんとうに相手のことを想うのであれば、自分のことだけを考えて、自分を満たすことがすべてなのだ。

 

そこに無理が生じると、道理よりも自分の感情が引っ込む。

引っ込んだ感情は、いつか爆発する。

 

「これだけやっているのに!」「なんで認めてくれないの!」と。

 

自分勝手と思われるくらいでも足りないくらいなのだ。

 

うん、犠牲大好きな私にとって、書いていると耳が痛くて遠い目になってきたから、次に行く。

 

7.苦しいことや悲しいことから逃れるためには、できるだけ苦しみ悲しむことが大切というパラドックス

 

感情は感じ切ることで抜けていく。

我慢するほどに膨らんで、いつかパンクする。

 

かの良寛さん曰く。

 

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候

死ぬ時節には死ぬがよく候

これ災難をのがるる妙法にて候

 

苦しいときには苦しむしか方法はない。

苦しいことを受け入れること、それが苦しみから逃れる唯一の方法なのだ。

 

あるがままの自分でいること。

本来の自分を隠さないこと。

感じたことに素直になること。

裸でいること。

守らないこと。

 

それを、自分の心に寄り添うと言っても、ハートを開くと言っても、本音に気づくと言っても、同じことなのだろう。

 

あるがままの自分でいること。

 

8.孤独感や欠乏感を消すためには、それを消そうとしないことが大切というパラドックス

 

ハッピーエンドは理想だけれど、人生はそこで終らない。

 

どんなに外側と世界で物質的に満たされたり、あるいは心通う人が見つかって内面的な交流で満たされたとしても、人は孤独感や欠乏感といったものを消すことはできないのだろう。

 

それを消そうと執着すると、なおさらその青白い炎は燃え上がる。

 

孤独感も欠乏感も、どちらも生まれ持ってきた大切なもの。

 

デフォルトで設定されているステータスのようなものだ。

 

それを消そうとするよりも、「やあ、今日もやってきたんだね」と付き合っていく方が、気にならなくなる。

 

多くの人にとって、持病というのもそういうものではないだろうか。

 

9.最も美しい面を相手に見せようとすると嫌われて、最も醜い面を晒すと相手から愛されるというパラドックス

 

愛されようとするほどに嫌われる。

好きにせえとまな板の上の鯉になると愛される。

 

かくも人の愛情というのは不思議なもので。

 

追うと逃げ、去ると追われる。

 

人と人の関係とは、バランス。

 

いい面を見せ続けると、相手は悪い面を見せないといけなくなる。

 

自分の醜い面をさらすこと。

それは、そんな面を持っている自分も無条件で素晴らしいという自信が為せるもの。

 

ということは、愛されるためには愛することが必要ということか。

 

誰をって?

 

ほかでもない、自分自身を、だよ。

 

10.美味しい肴はお酒が進んでしまって酔っ払ってしまう、というパラドックス

 

いまは私は断酒中だが、これは全ての美味しいもの好きの酒飲みが抱える永遠のパラドックスのように思う。

 

 

ということで、いつもとは違ったテイストでお届けしてみた。

 

楽しいんで頂けたら幸いです。

 

_______________

フォロー頂けると喜びます!

Instagram → naoto_oosaki

Facebook → naoto.oosaki.5

twitter → @naoto_oosaki

LetterPot  → users/13409 

_______________